厚賀町史

URADOどんぐりかいぎ

第十章 古老の追憶


八十年の生活に拾う

美原(故)山本勝三郎

 私の父は明治四年に淡路の稲田藩一族と共に静内に移住し、開拓に従事していましたが、与えられた土地が狭く、厚賀に行くと広い土地があるというので、二十年間の静内の土地を譲り、当事の赤無に再入植したのでした。それは明治二十五年のことで、家族は八名、私は十歳でした。土地は山本森太郎さんの跡地をもらったのです。当時は一面の葭原で、湿地帯で茅や野地坊主が多く、開墾は排水路造りと併行して進めなければならなかったのです。しかし他の開拓地のように大樹の伐木、抜根作業の必要がなかったこと既に拓いていた土地には直に三頭曳のプラオの使用が出来たことと土地は肥沃で反当大小豆は四~五俵もとれたことは恵まれていたと云えましょう。土地は書類を出せば(開墾さえするなら)幾らでも買えたものです。収穫した大小豆は、江差の買出人が「段付け」をして買いに来ましたが、小豆が四円五十銭、大豆は二円八十銭から三円位であったと思います。 主食は「こきび」で、米は薬用みたいなもので貴重品でした。本式の稲作りは大正十年と思います。翌年大水害で、灌漑溝も田も流され、造りなおして漸く穫れるようになったのです。開拓当時、一番辛かったのは虫に刺されたことでした。肌を出していると「ブヨ」が突きささるように食いつくのです。女の人は特に辛かったと思います。野良工事も着物姿で腰巻のため、素足が出ているのでブヨ、蚊等にとっては絶好の場所であったでしょう。当時の生活状態について少しお話しますが、始めの住居は「マッカ」に木を渡して骨組みを造った原始生活そのままでした。履物は全部手造りで、わらじ、つまごはもとより豚皮か鮭皮で「ケル」を造って履きました。これは火にあぶると耐えられない悪臭を放ったものです。豚は江差から来た人が飼っていた黒豚で口の長い種類のものでした。病人が出ると大変で、門別まで行かなければなりません。お産も素人産姿さんがとりあげたものです。 結婚の結納は品物で、タンスは雑木で造った頑丈なものでした。灯火は手ランプ(カンテラ)を使いました。娯楽というか遊びごとなどは全くなく朝早くから晩遅くなるまでただ働くばかりでした。
 ここでコタンのことについてふれさせて貫いますが、私共の入った時は山本、金沢、私等一家と三戸で後はコタンの人達でした。元神部、赤無、オサツナイに各々数戸づつ、賀張には十五~六戸あったように記憶しています。私の家でも開墾には随分頼んだものでした。山に行けば熊や鹿がまだ沢山おり、男は毎日弓、矢を持って狩に行き主に鹿狩りをやっていました。鹿の皮は商人が一括買い占め、多分函館に送っていたと思います。アキアジは川に群をなして上り、それこそ、そこに棒を立てると倒れなかったほどでした。これを背割りし、干物として常食しておりました。ひえ、あわを作るのは女の仕事でした。酋長はイソキチと言って海馬沢の性でした。墓地は現在の所でしたが、コタンの人は死人は火葬にせず、木の棺に入れて埋めておりました。道路も海岸を歩き、ここの道路も明治三十八年から四十年につくられたものです。正和の方に行くには、川づたいに上って行ったものです。 道路らしいものが出来たのは大分後のことです。厚賀の沢は森林資源に恵まれていたので造材が盛んになり、大正十年頃○本富本さんが始めた頃から、流送が始まり、厚賀まで運び、沖に大きな積取り船が来て船積みしたものです。当地に住んでから八十年。私も九十歳を超えました。昔を思えば、みな夢のようなことばかりです。門別町の百年という意義のある年に、私の想い出話を録音して下さることは、ほんとうにありがたいことで、これも長生きしたお蔭でしょう。当局の御厚意に心からお礼を申し上げます。
  七十年の往事を偲ぶ

田端年松

 私は福井県大野郡の生まれですが、厚賀に来たのは明治三十一年で八歳の時でした。福井から小蒸気船で越中を通り、函館まで一周間、函館から室蘭までは定期船に乗りました。室蘭から苫小牧までの列車の中で車掌が同県人であることがわかり、日高に行くには沼の端まで汽車に乗れぱ楽だからと、特別の計いをして貰ったと父母達は語っていました。沼の端から厚賀まで荷物を背負って、砂浜を歩いた記憶がありますが、家族は親子五人で兄が十二歳で妹は五歳でした。同時に入植した六戸も一緒に厚賀に来ましたが、途中賀張で野宿したとき、月明りで汐こみを気付かず、賀張川がとても大きい川だと思い、どうして渡るのか心配しました。翌朝は汐が引いていたので、みんな狐にばかされたような思い出でした。六戸の入植者は、小田平左衛門、林一広、父の徳蔵、安達若次郎、森永秀蔵、森永新左衛門の皆さんでしたが、新左衛門さんは内地に帰ったので、完全入植者は五戸でした。 入植者の場所は、今の田端保さんの所ですが当時概に浅山、上村、林、山本さん等が住んでおり、山本利平さんは、今の鉄橋のつきあたりで駅逓と宿屋をしていました。入植し先づ麦を作りましたが、とに角食糧を確保しなければならないので始めたのです。畑の面積は厚賀全部で二十町歩位だったでしょう。当時ここらに木は一本もなく野地坊主ばかりでした。開墾の毎日がタゴッぺぺ切りで大変な重労働であったと思います。土地は開いただけ願い出ればいくらでも貰えたものでした。私共の家は堀建小屋で、茅の屋根と茅の垣で部屋の仕切りもなく、簡単な炉を切った程度の粗末なものでした。私達が来てから道路や橋がつくられたのですが、それまでは山本利平さんのところが船渡場で舟は丸木舟でした。当時佐瑠太には沙流川につり橋がかかっていたのが、入植した年のあの大水害で流され、相当の被害があったことは子供心にも聞かされて記憶に残って居ります。 米を本式に作るようになったのは、欧州大戦後の大正九年頃と思います。浅山さんが沢から水を引いて試作したのが始めてのようです。浅山さんは、田中ぜんかいという人を連れて来て、米作りを私共に教えてくれました。お寺が建ったのは大正四年頃と思います。神社は私が来た時は既にありました。この神社は賀張、慶能舞、厚別の合同神社であったことから、後にお宮を建て替えるとき、引張り合いになりました。しかし山本森太郎さんが土地を寄附するということで厚別に決ったのです。学校は郵便局の前に、漁場の茅葺の納屋があり、その納屋を利用して仮校舎としたもので、これは私共の入るその前年に開校していました。先生は三島豊蔵という十五~六歳の若い人でした。三十三年に現在の神社の所に校舎と住宅を併せて建てましたが、更に大正二年には、今の弘専寺横に移されたのです。厚賀に来て七十五年を過しました。当時の人々は殆ど居りません。 自然の姿も昔の面影はありません。何もかも変ってしまいました。当時を思えば夢のようなものです。
半世紀前の厚賀を偲ぶ

中村精二

 私は厚賀に参りまして、既に半世紀の歳月を、町の推移と共に歩ませてもらいました。町百年に際して往事を語るようにとのことですので、大正十三年の鉄道開通当時の前後の状況について、特に商店経営者の立場から見た厚賀の姿をお話しします。鉄道開通前は近郊、隣接地の物資輸送は馬車を使いましたが、商品の仕入れ等は函館からの定期便で、東天丸という六百トン位の汽船に頼っていました。定期船ではありますが時化になりますと荷役が出来ず、時には遠く室蘭まで退避するという始末で、時化が何日も続くと生活物資が欠乏して困ったことがありました。又その船には当地方の魚、魚粕、雑穀類を積込み、函館の委托問屋に回漕するのですが、価格は先方に委せきりで、適当な時期に処分して貰うという大様な方法でしたので、日高は函館商人の米櫃だと囁かれたのも事実であったかも知れません。 定期船の荷役は現在の浜賀張の、山本商店前の浜側に回漕店があって、そこが港の役割を果して居りました。荷物の積降しはサンパ船を使い、長い足場板を陸からサンパ船に渡し、上下に揺れる板の上を、重い荷物を肩に腰で調子をとりながら積込む作業は、容易なものでなく、時には波をかぶって水舟にして、大きな損害を出すこともありました。回漕店の経営は、今の組合の前身であり、関係者の出資によってなされておりました。毎月一回は関係者の集会が開かれましたが、畳の座敷の会場でストーブを囲み、南部センベイをかじりながら、四方山話しに花を咲かせ、同業者の親交を深めたことなどが懐しく思い出されます。これが商業者集会の始めであったと思います。
 当時私が一番若く、小使い役でした。浜では山本滝平さん、北村久吉さん、今三次郎さん。市街地では坂東岩之助さん、浜本安次郎さん、加藤善吉さん等の先輩で、この人達は当時商業関係ばかりでなく、各方面にわたって幅広い活躍をしておられたのですが、今は殆どの方が他界されてしまいました。当時の市街地は大変活気がありました。浜は豊漁続きで浜辺には漁粕をたく釜舎が建ち並び、沢山の薪を焚くので、煙は景気よく立ち昇り、家々の軒先には干漁が吊され、周辺の空地には開鱈が並べられ、附近一帯は漁場独特の雰囲気が漂っていました。又市街地も近くの山々の造材事業に従事する人達とその跡地に入った製炭業者で賑ったものです。当時の造材事業は大変な人海戦術で、すべてが人と馬との作業でしたので、大勢の人が入り込み、飲食店から蹄鉄屋、馬具屋、鍛治屋をはじめ、その他の商店も繁昌していました。 又農家の人も、農閑期を利用して大勢木材搬出に活躍したものです。こうした中で、特に想い出に残るのは正月の初売り風景でした。新年二日には初荷に花やかな初荷旗を立て、真新しい印伴天を着た馬車追の人達が、一杯機嫌で石油缶や樽をたたきながら、数十台もの馬車を連ねて山から出て来る行事は実に壮観で、一段と街に景気を添えたものです。搬出された木材は、今の駅前浜場に一旦積まれ、積取船が来ると、艀で本船に積込むのですが、春先の寒風の中を大勢の人夫が波打ち際で腰まで海水につかり、ガンタや鳶口を使って、木材を沖に押し出している姿を思い出す時、血と汗によって築かれた本道開拓史を物語る尊い一つの姿であったと思うのです。大正十五年、厚賀から静内へと鉄道がのび、陸の孤島と云われた日高も漸く交通が便利となり、同時に函館依存の取引き関係も、段々と札樽方面への経済交流へと移り替っていきました。 そして新しい時代の流れと共に、年毎に戸数も増え、漁港の完成を見、市街地の様相も大きく変って現在に至りました。港もなく艀での船積、金輪の馬車、木材の沖積等々原始的な生活や生産技術の中にも、当時の人々の開発への旺盛な意慾を感ぜざるを得ません。それが街に溢れる活気となったものでしょう。軽便鉄道の開通に、勧喜に湧いた当時と現在の姿を比較すると将に隔世の感があります。しかし新しい時代には新しい生活の知恵と、新しい開発への旺盛な意慾が必要です。町百年の記念すべき年に、往事を偲びこの感をいよいよ深くするものであります。
漁業の今昔

石崎幸吉

 私の兄は厚賀の伊藤平吉氏の川崎船の船頭をしていましたが、その兄を頼って様似より移って来たのが、大正六年八月、丁度十二歳の時でした。厚賀に来るときは様似より歩いて三日がかりであったことが思い出されます。当時の住居は片屋根で土間があり焚火でした。天井には空窓があり、炉鍵を使い入口にはカスミ?を下げるという粗末なものでした。寝床には燕麦幹の上にガマで編んだゴザを敷いて寝ました。米は函館からで、冬には一ケ月に一度位しか船が入らないので米がなくなると、魚を持ってコタンに行き、ひえやあわと交換したものでした。当時浜賀張は漁家ばかりで、十四戸、船は川崎船で十隻で、一隻に六人乗り組んで操業しました。乗り組む漁師の半分位は出稼ぎでした。十月頃から鱈釣りをやり、これを塩蔵ひらきにしました。ひらきにするとき、頭や内臓は魚粕にしたものです。五月頃からはカスべ、サメ等の雑魚をとり矢張り粕にしました。 当時は魚は豊富で、大正十二~三年頃までは何でも獲れました。その殆んどが粕に製造され、製品は函館の問屋に送るのですが、全部船積みされたのです。漁師は給料でなく、全部歩合でした。米一俵が四円十銭位で買えた時代でした。朝は三時に沖に出ます。弁当は握飯で、沖で朝食をとりました。沖に出ると冷えて、ひえ、あわ等の弁当ではボロボロで粘りがないので、握飯だけは米でした。しかし家族はひえ、あわが常食でした。沖からの帰りは午後三時頃で、遅い時は五時頃になりました。船はワイヤで捲き揚げたのです。勿論手捲きでした。大正十五年に兄が室蘭で四~五十の焼玉エンジンの動力船を造りましたが、この建造費は百八拾円でした。当時は電気チャッカ船はありましたが、焼玉エンジンは診らしく、日高管内では最初のものでした。この時は給料制となり、船頭で十六円、若い者で十一円~二円位でした。 想い出の中に残るものでは、大正九年は凍れの強い年で、海上にスガ(氷)が張り、数日後強い西風に氷が移動し、前浜が氷の山になったことでした。もう一つは、昭和十年九月十八日と記憶していますが、大津波があり、家が流され捲き揚げておいた船は神社まで押しあげられ大騒ぎでした。幸い死者は無かったけれど数人の怪我人がでました。
 厚賀港が出来てから漁業も随分と変り、進歩したものとその感を深くしています。

◆編集後記

 数年前より『厚賀の歩みを編集してはどうだろう』ということになって、その主筆を引受けはしたものの、どうやったらいいのだろうかと途方にくれて、各有識者に相談はしましたが、さて実際にペンを執りますと一朝一タに簡単に出来ません。後世に残るのですから尚更です。全く自分の非歳を痛感致しました。
 『編集をしなければならない』と邁進し、年月は経ちましたが、今日やっと原稿完成しました。開拓当時の人々は他界しましたが、古老、先輩諸氏の片言、挿句を聞き、書きの方法で文章化しましたが、高尚な文体や用語も使用出来ず、これを読まれた方々も編集の方法や、資料の不備な点、間違いも多々ありましたでしょうが、深く御詫びするとともに、諸賢の御寛容をいただきます。
 本誌の編集に当りまして、門別町史、新冠町史を参照させていただき、資料を提供された個人の方々、学校、諸団体、且つ脱稿の整理をされた赤根正一校長に深く感謝の意を表します。
昭和五十年三月一日

編集担当者 朝妻勝衛
厚賀町の歩み
昭和五十年四月一日 印刷
昭和五十年五月一日 発行
編集 厚賀一致会
印刷 静内郡静内町駒場十九
青れい社
TEL ②-〇四三三
-非売品-

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