厚賀町史

URADOどんぐりかいぎ

第九章 各地域の郷土史


◎東川

 明治四年八月新冠の管轄が稲田邦植から開拓吏に移った時の引継ぎ書に伝えると、元神部、受乞には十五戸、七五名のアイヌ人が居住していた。幕政時代からこの数には変りはなかった。
 明治五年新冠御料牧場の設置に伴い、現在の東川、共栄共に厚別川の縁近く迄その用地に編入されたため、明治三十年前後迄には和人一人も居住していなかった。
 淡路より田村廉蔵が明治十七年三月に東川の川向いに当る門別町豊田のオバウシナイ沢に移住。明治四十年頃までこの地にいたという。暫らくして後、赤無橋まで道路が出来上り、橋の上手に丸木舟による渡船場が出来た。管轄のためか無料であった。商品を購入するには静内、門別まで出かけたという。

◎アイヌの生活

 その当時までアイヌは酋長ウサムクリを中心にして畑には少量の稗と野菜を栽培して生計を営んでいた。稗の収穫方法は穂ちぎりて、高床四囲は丸太草葺小屋に之を貯蔵し、臼で手つきして精白にした。道路全然なく、川べりや河原を歩いた。川縁の柳原を除いては直径一m以上もある大木が主で割合見通りよく、熊を見かけることは殆んどなかったという。

◎東川地区入地

 国道筋の厚別橋が出来て渡船場が廃止されたので、この渡守りをしていた『イフクノ』という人がこの地域に転住して来たと伝えられる。この頃田村廉蔵と前後して、東川地に静内当別の住人、納茂左工門の息子通弥シゲちゃんが入地小作をしたが、三年位で帰る。これがこの地域に和人の入地が初めてである。
 明治三十年植民情報によれば(元神部)古来アイヌの部落にして、農業教授の際、比宇村より四戸移し、目下十七戸、百人あり、和人の寄留するもの一戸とある。
 又アイヌは皆農業に従事し『プラオ』を以て耕し、一戸作付は一町歩より五町歩に至る。殊に肥田孫一なるものは凡そ十町歩作る。又御料牧場地内九、〇〇〇坪を借りて開墾に着手するものあり、その借用料は一年六円なりという。

◎赤無教育所

 明治三一年には厚別川の大水害を被り、三二年には土人保護法が交付、三八年には門別村に『赤無教育所』が設立され、東川、共栄の和人を含め向学希望の者は厚別川を渡渉して通学し初める。
 明治四十年頃、御料牧場の小作農業者として、元神部、受乞で専心開墾に従事していた人々の中に、川岸から少し奥地に入ると、森林うっそうとして白沢でも野獣横行し、人蓄に危害を加え、又毒蛇の歯牙にかかっても医療をうけることも出来ず、横臥呻吟して一命を失うものも少なかった。道路も橋もない頃は厚賀迄八Km、強い者でも一斗の米、みそを背負って漸く往復する有様であった。明治四一年頃に『浅山直』氏は東川、共栄川筋本通りの御料地管理人となった。

◎元神部教育所

 明治四三年に旧土人保護法による元神部教育所が設置され、浅山直氏が教員となった。教育所は土人二三人、和人二人なり。浅山直は明治四三年より十年余り勤務した。
 その頃島田インぺの沢に水田三反歩が耕作されていた。これが水田の初めである。佐藤喜助が東川に入植し、大正二年には冷害凶作で住民の生活甚々しく困窮した。この頃商店らしいものが出来た。
 大正四年に厚別川に赤無橋が架設され、同時に『ブケマ』迄道路が開作された。同年に浅山直の寄進により東川稲荷神社が創設された。冷害にもまけず水田に畑作に専心し、大正七年四月には農事改良実行組合が結成され、次第に恵されつつあった。大正九年には土人学校廃止。日新小学校附属特別教育所。更に元神部小学校として独立昇格し、十月に移転改築す。(現在地なり)大正十年には村医出張所が設置され、杉村寛治が代診として診療を開き七年間辺地の民衆の生命を扱ったのである。又大正十二年には戸数も増えて『小野小平六』が村会議員に出馬、当選す。
 以上が元神部地区の生立ちである。いよいよ昭和に入り急転世相も変り、終戦を基点としていよいよ農業に穀相の地帯、或は軽種馬の生産に意欲をそそいでいる。

◎美宇

 明治四二年まで新冠御料牧場の放牧地であったが、何分奥地のこと故熊の出没激しく放牧馬の被害もしばしばで、之がぼく減の為、密林地帯を開墾せしむべく、中地琴次郎外二~三名の者に土地を貸したが土着に至らず、通り作りして五~六町歩を開く。之が明治四二年で、美宇地区に鍬を入れた初めである。
 明治四五年一月浦河町より福岡伝兵衛が子供と共に駄馬十一頭に荷物をつけ、静内から山越でこの美宇沢の奥に入地した。之が定着の第一人者である。
 大正二年三月に牧野鹿乃が静内から入地する。
 大正三年には、樺太から五戸を初め、各地から入植するものがあり、戸数二五戸を数えるに至った。然し勿論道路らしいものとてなく、幾度か川を渡り、辛じて駄馬が通行の程度であり、大正四年この不便を除くため部落総出動で数日を費し、金輪馬車往来の道路に仕上げた。大正六年には『芽呂』地区に七戸入地す。大正十二年には農村不況其の他の事情で離農者続出十八名となり、こうして大正十五年には土着する者二十戸余りとなる。昭和四年頃から二~三男の分家するものが現れて戸数も増加の方向を辿った。
 昭和五年には水田耕作者も出て来たが気候等により七年間続いた稲作も中止となり、十五年には『ハッカ』栽培を全部落で初めた。
 昭和二三年農地改革により耕地をそのまま開放となり各戸に売渡さる。社会の経済も転変し始めると『ハッカ』から稲作と造田に変り、今や町内唯一の美田となる。農村用公衆電話が開通され、一段と明るさ便利となり、三三年には太陽までバスが二往復となった。又三五年には待望の電灯が各戸を照らすことになった。

◎太陽郷土小史

 旧新冠御料牧場の一部解放地に出来た部落である。
 太陽は敗戦による入植者によって開拓された部落で、太陽という名称は森春一が旧満洲開拓局長田中孫兵を経て、当時農林大臣和田博雄、鉄道大臣小見山等によって選定され、高松宮殿下から命名されたものと云われている。
 第一次入地として、満洲引揚者の集団が、森春一を団長として、昭和二一年九月十三日大狩部に到着しここに待機。越えて二二年寒風吹きすさぶ一月現在地に入植した。この時の入植は三団体合せて五六戸。開拓地面積は四一一町七反であった。入植当時は巨木の密林におおわれ、熊のほえる声が密林にこだまして聞える日も多かったと云われる。この年五月三日、厚賀にあった太陽開拓所で連絡所三団体に対して土地の配分が行なわれたので、あらゆる不自由を忍び乍らも前途に明るい大きい季望を持ち、自己の土地に開墾の鍬を下した。開墾能率化のため開拓公社を設立して機械開墾を行なうことにした。六月に入って取あえず人力で耕し所々食糧確保のため『ソバ』馬鈴薯、南瓜の種を下して豊かな実りを祈った。
 翌二三年五月に第二次入植者四九戸が四〇五町を開墾することになった。この入植者は主に樺太引揚者と日鋼室蘭の帰農者の団体であった。この年の五月に開拓公社は都合により撤退し、翌年から火薬を使用して抜根作業を始めた。耕馬が初めて二頭この年に導入され、太陽開拓農協が設立され、初代組合長に森春一が就任した。
 二八年から乳牛の導入て始まり、道路も国費によって着手される。二七年五月に初めて北見ハッカの作付を開始。蒸留工場も一ケ所建築された。この年水田の試作も行なわれた。三一年には有線放送(電池式)が開始され文化の光がさし込んで来た。三二年には開拓保健婦が駐在。太陽開拓農協は新冠開拓農協と合併した。三三年十一月十一日には道南バスが開通した時の喜びは実に大きいものがあった。三四年には公衆電話、三五年には僻地集会所四五坪が学校に併置されるに至った。
 こうして入植以来十五年間に交通、通信、保健衛生、学校、集会所等文化施設が次々と整ったが、三七年には待望の電灯が全戸に点灯し、ランプ生活から家庭電化、作業の電化と大きく生活全体が変革する段階になって来た。この開拓に成功したのは指導者に適材を得たことは勿論であるが、満洲、樺太、日鋼帰農者が一体となって協力した賜である。

◎里平

 太陽部落と同様、戦後御料牧場の解放により緊急開拓地として発足した処である。今日では先進部落として水田、こく農として進展は目覚しい。
 入地は昭和二四年四月二四日開放が決定されて入植した。
内訳は
・満洲引揚者 二五戸 内門別地区二七戸 八六名
・樺太引揚者 一戸 新冠 二二戸 七四名
・台湾引揚者 一戸 計四九戸
・戦災者 一戸
・復員者 五戸
・一般者 十戸
 入植当時は全国的に食糧事情が困迫した時代で、住居も拝む程度で毎日が苦しい生活の連続であった。後に開拓農協を結成し、互に励し合ってよく困難に打勝った。三三年に入植十周年を迎え開拓記念碑を建立。後代に永らく伝えることとした。

◎新和

 戦後地名改めて新和となったが、正和を合せて上厚別と俗に云ったものである。
 明治三十年頃には旧土人十戸程居住していたが、明治三九年になって初めて多田喜平、小泉梅吉が入地して開拓の鍬を振った。明治四一年には的場菊平が入地、四四年には的場市太郎が商店を開いたという。大正二年には厚賀-共栄間の道路工事が行なわれたが大変なものであった。大正七年には造田が行なわれた。十一年には大水害があって一変した。昭和二年新和農事実行組合が出来て畔柳得明が就任。八年畔柳得明が初めて村会議員となった。十一年に新和郵便局が設置され交通郵便業務等いよいよ明るい村になって来た。戦後営林署担当区域は苗畑も出来、三五年にはやっとローソク、ランプの灯とも別れて電気が通じた。三八年には戸数五十戸、人口二六五名となると現在各部落共に過疎の波は押し寄せて来ている。

◎三和

 この部落に初めて和人の入地をみたのは大正六年である。即ち伊藤岩蔵が若冠二三歳で家族五人を連れて、はるばる岩手県から入地した。同八年小野五平、同十一年には草木国松が夫々入植して部落が形造られて来たが、山合いの淋しい奥地のこととて当初の間は地の果てにでもいるような感であったという。
 昭和七年になって道路も出来たが、雨の二~三日も続こうものなら、馬車が通れないことがあった。これが融雪の春先ともなれば、何処に道路があるのか分らない泥ねいと化し、何日も通行は出来なかった。
 気候は山ろく地帯独特のもので、三年に二年は凶作であったと云われ文字通りの苦斗は想像以上であったに違いない。それでもこの地帯に造材が盛んに行なわれ、冬期になると杣夫が沢山へ入り込んで賑かになり部落の人々も冬期間のアルバイトに思わぬ収入を喜び、霜が下りるようになると事業開始を待ちわびたものであったという。
 昭和八年には小学校も開校。入植者も急増し、翌年には神社も建立され部落の基礎が出来、今日の発展をみる。
 尚正和、三和共に門別町なり。

◎正和

 昔この辺一帯を『ナミノ』と称していたが、上貫気別を通って沙流川を下り、サルフトに通ずる要衝の地でかなりのコタンを形成していた。和人が初めて入地した頃には二名で山沢コヤツが部落を主宰していた。
 明治三八年に角所藤兵衛、山本徳兵衛の二人が草分け入地したが、当時の苦労話に『今のように川には橋が全然なく、米、塩、その他の生活必需品は厚別に出て買入れしたもので、ただでさえ困難な道であるのに荷物を抱えての難渋はひと通りでなかった。
 交通の便を見るまでは『ヒエ』が主食で、米は病人用か正月か盆用として貯えたものだと語っている。
 明治四三年に宮坂進太郎が入地し、その後和人の入地者が漸次増加し、大正二年になって田口駅停の開設をみた(昭和十六年に閉鎖されたが引続いて旅館が経営される)ようやく人ロも多く、上厚別特別教授所が大正八年に設置され、昭和八年には独立小学校となり後正和と改称今日に至っている。

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