厚賀町史

URADOどんぐりかいぎ

第八章 学校


第一節 小学校

 厚賀小学校々歌
 作詞 古関吉雄
 作曲 福井直秋
一、朝日に映えて そびえ立つ
 日高高嶺の 空目ざし
 願いも熱く 身にもえて
 飛ぶよ若鳥 翼はり
二、厚別川の 波きよく
 光きららに ゆれおどる
 足なみ軽く 岸ゆけば
 はしる若魚 元気よく
三、希望は花と 咲きかおり
 心ひとつに はげみ合う
 厚賀の子等に うたう歌
 広い海原 越えて飛べ

◎厚賀小学校沿革の概要

明治二九年十一月三日 故山本森太郎氏等が中心となって、部落有志と相はかり、小学校創設の運動にのりだす。
明治三十年七月二一日 厚別村字ハイス(現在の厚賀町、松井栄菓子店裏浜)に、故山本森太郎氏の倉庫(漁場番屋)を借り受け、造作を施し、仮校舎として授業を開始した。これが厚賀小学校の創立であり、以後この日を開校記念日とし今日に至る。当時は公立門別尋常小学校厚賀分校と称し、修業年限は三ケ年。通学区域は厚別、賀張、慶能舞(現在の清畠)にまたがり、児童数二五名、教員一名であった。
明治三二年五月三一日 修業年限は四ケ年に延長された。
明治三二年六月四日 厚別村字モユサ(現在のすずらん公園下)に新校舎落成移転した。児童数二三名、教員一名。
明治三三年四月七日 通学区域の慶能舞に簡易教育所が設置された。
明治三三年七月十二日 独立校として認可され、校名も公立厚別尋常小学校と改称される。
明治三四年四月一日 通学区域内の赤無(現在の豊田)に簡易教育所が設置された。
明治三七年五月一日 通学区域内の賀張(山賀張)に簡易教育所が設置された。
明治四一年四月一日 修業年限が六ケ年に延長された。
大正二年六月十五日 慶能舞、賀張の両簡易教育所が統合され、公立慶賀尋常小学校が創立された。なお大正十一年五月一日に公立慶能舞尋常小学校が独立し、翌十二年六月五日公立賀張尋常小学校も独立したので、公立慶賀小学校は廃止された。
大正二年九月二日 厚別村字ハヤブ卜二九の九(現在厚賀町一八五番地、弘専寺西隣の国道筋)に新校舎を建設移転した。同時に赤無簡易教育所は本校に統合された。児童数一〇〇名、教員二名。
大正四年五月十三日 厚別郵便局長、山本森太郎氏より御真影奉置所一棟が寄附された。
大正十年五月四日 高等科が併置され、公立厚別尋常高等小学校と改称される。当時尋常科児童数一八九名、高等科生徒数二十名。合計二〇九名。教員数、校長他四名。
大正十一年八月二二日 池田直次郎氏より、学校西側隣接地一反八畝六歩(約一、八〇一m2)の地所が学校用地として寄附された。
大正十三年八月十日 中村乙松氏より、校舎西側に一教室二十坪、廊下五坪が寄附された。
昭和二年十一月十日 開校三十周年記念式と合わせて、屋内運動場、裁縫室の新築落成祝賀会が開催された。
昭和八年二月一日 田端年松氏より、附属グランドとして借用中の土地一町歩(約九、九〇〇m2)を屋外運動場として寄附された。
昭和九年四月一日 校章が制定された。(現在のもの)
昭和九年九月十四日 校旗が制定された。(現在のもの)
昭和十年六月二六日 午後六時三十分頃、大津波の来襲をうけ、駅前厚賀方面の被害甚大なるため、二七日、二八日は臨時休業の措置がとられた。
昭和十一年九月二七日 池田直次郎氏寄附による一教室、町費による一教室、計二教室が増築された。
昭和十一年十二月一日 学名が厚賀となったので、校名も公立厚賀尋常高等小学校と改称された。児童数四七六名、教員数校長他十一名。
昭和十二年八月十二日 開校四十周年記念式典並に祝賀会が行なわれた。
昭和十六年四月一日 国民学校令により、厚賀国民学校と改称される。
昭和十九年四月十九日 陸軍御用船、大成丸が厚賀沖で遭難。その負傷兵や戦没死体収容のため、二二日まで三日間臨時休業とする。
昭和十九年七月十五日 米国艦載機グラマン四機が来襲。校舎は約五〇〇発の機銃掃射を受け、一〇〇ケ所にわたる被弾痕があったが、児童下校後であり、人体に被害はなかった。
昭和二一年一月二四日 御真影奉置所は、屋根を模様替えの上、弘専寺境内に移転し、英霊室とし、土台は開村記念塔の土台として使用することにした。
昭和二二年五月一日 新学制(六・三・三制)公布により、国民学校高等科は廃止され、同学年に該当する生徒は、新制中学校生徒となる。小学校は厚賀小学校と改称。新制による厚賀中学校は小学校々舎に併設された。
昭和二二年九月二二日 開校五十周年記念式典が行なわれた。
昭和二三年四月五日 中学校々舎新築第一期四教室完成に伴い、四学級移転。二学級のみ併設。
昭和二四年十月二六日 中学校々舎第二期工事完了に伴い、併設の二学級移転。中学校々舎学級移転完了。
昭和二七年三月四日 十勝沖地震により、校舎が危険状態となり、丸太で支え使用する。
昭和二七年十二月十一日 厚賀町一四〇番地に現校舎が新築落成し、移転した。普通教室 十二、職員室 一、応接室 一、宿直室 一、湯沸場 一、便所
昭和二八年十一月十四日 屋内体育館と第二線校舎東側に二教室が増築された。※二八年春より三十年秋まで、毎年春秋二回、PTA会員はもとより校下あけての校地内の整地及び環境整備が続けられた。前庭は一米余りの凹地で、水の溜ったところでは子どもたちが 遊びをしていたほどであった。馬車五〇台から六〇台、二〇〇人位が出動しての砂利敷作業。なかには赤ちゃんを背負った母親、又炎天下泥まみれになって排水溝堀りの父親。どの方も真剣そのもので、全くの奉仕活動であった。
昭和二九年五月一日 校下一般の寄附により、グランドピアノが設備された。
昭和三一年一月二四日 第二線校舎西側に二教室が増築された。
昭和三二年十月十五日 音楽教室が増築された。
昭和三二年十一月三日 開校六十周年記念式典が行なわれ、校歌の制立、落葉松四〇〇本の記念植樹がなされた。
昭和三四年四月五日 校地内に門別町児童遊園地の施設がなされた。
昭和三八年九月一日 PTAにより鉄骨製野救バックネットが設置され、又一〇〇人織成の鼓笛隊用楽器が購入された。
昭和三九年十月十日 体育館東側にステージが増築された。
昭和四一年九月十日 PTAにより、校庭の環境整備(ブロック、レンガを購入)が行なわれた。
昭和四二年九月十七日 開校七十周年記念式典が行なわれ、記念事業として、遊具及び体育施設(回転式ジャングルジム、雲梯、低シーソー、高シーソー、はん登棒、鉄棒)の設置と、歴代学校長の写真掲額等の設置が行なわれた。
昭和四四年七月十日 校地内に学校プールが新設された。

◎児童生徒数の変遷

年度 児童数 生徒数 合計 学級数 教員数 備考
明治三十 二五 二五 一 一 修業年限三ケ年
明治三五 二三 二三 一 一 修業年限四ケ年(明治三四年より)
明治四〇 二六 二六 一 一 修業年限五ケ年(明治四一年より)
大正一 七一 七一 二 二 修業年限六ケ年(明治四三年より)
大正五 一三一 一三一 三 三
大正十 一九〇 二〇 二一〇 四 五 高等科併置
昭和一 三一一 七一 三八一 七 九
昭和五 三二三 八六 四一九 八 一〇
昭和十 三七五 九九 四七四 八 一〇
昭和十五 三九六 一二四 五二〇 一三 一四
昭和二十 四一三 一一六 五二九 一二 一四
昭和二五 五四〇 五四〇 一二 一七 昭和二二年新制中学校発足のため高等科廃止
昭和三十 六一四 六一四 一四 一七
昭和三五 六五二 六五二 一五 一七
昭和四十 四八三 四八三 一四 一六
昭和四五 四三五  特学(七) 四五三 一三 一七 昭和四三年特殊学級併置
昭和四九 三四三 〃(四) 三四三 一三 一八 卒業生総数小学校四、九一〇人、高等科九五五人、計五、八六五人
(昭和四九年三月現在)
◎歴代学校長(・印は故人) 代 氏名 出身地 在職期間 備考
自 至 期間
一代 ・藤原兼蔵 明三十年七月 明三三年六月 三年 公立門別尋常小学校長
二代 ・浅山直 福井県 明三七年四月 明四二年五月 五年一ヶ月
三代 ・長野弥一郎 新潟県 明四二年五月 明四五年六月 三年一ヶ月
四代 ・松家成忠 徳島県 大二年二月 大四年十一月 二年九ヶ月
五代 ・川村忠治 青森県 大四年十一月 大五年三月 四年四ヶ月
六代 ・星川賢吉 愛媛県 大九年三月 昭二年十一月 七年八ヶ月
七代 ・石黒茂孝 石川県 昭二年十一月 昭六年三月 三年四ヶ月
八代 牛島義人 北海道 昭六年三月 昭十六年六月 十年三ヶ月 札幌市西区西野二九〇
九代 ・小葉松与作 北海道 昭十六年六月 昭十八年四月 一年十ヶ月
十代 ・留目四郎 青森県 昭十八年四月 昭二二年五月 四年一ヶ月
十一代 ・小泉二郎 北海道 昭二二年五月 昭二三年三月 〇年十一ヶ月
十二代 渡辺宗勝 北海道 昭二三年三月 昭二六年三月 三年 札幌市東区北三五条東十丁目
十三代 ・岡崎定蔵 北海道 昭二六年四月 昭二八年三月 二年
十四代 野坂泰三郎 北海動 昭二八年四月 昭三五年五月 七年一ヶ月 静内町字青柳町一二の二(静内町文化センター勤務)
十五代 井上勝治 北海道 昭三五年五月 昭三九年十月 四年五ヶ月 静内町字御幸町一五七
十六代 岩田毅 北海道 昭三九年十月 昭四三年三月 三年五ヶ月 新冠町北星町(新冠中学校長)
十七代 辰身寅吉 青森県 昭四三年四月 昭四五年三月 二年 静内町字古川町二三〇(静内町教育委員会社会教育指導員)
十八代 高田富勝 北海道 昭四五年四月 昭四八年三月 三年 岩見沢市上幌向町(上幌向中学校長)
十九代 赤根正一 山形県 昭四八年四月 現在

第二節 中学校

 厚賀中学校々歌
 作詞 古関吉雄
 作曲 福井直秋
一、はるかな空の はてかぎる
 山脈日高 あおぐとき
 思いは高く あまがけり
 もえたつ希望 うたとわく
二、さえずる鳥に さそわれて
 風さわやかに 野をゆけば
 すずらんもえて かおりたち
 きよらな夢は 花と咲く
三、大海原の 潮風に
 心をみがき 身をきたえ
 理想のゆくて のぞむとも
 栄えよ 厚賀中学校

◎厚賀中学校創立及び沿革の概要

 世界の平和と人類の幸福を希う平和的民主国家として日本を再建する為には、その根基は国民教育にまたなければならないという警鐘の下、画期的な教育制度の大改革が断行された。所謂る六・三制の新教育制度が実施され、教育の機会均等が実現されることになった。この時流に乗り茲に門別村立厚賀中学校は創立された。
 職員には初代校長小泉二郎外六名が任命、厚賀、賀張、元神部の各小学校卒業生を収容。一年は二学級、二、三年は各一学級の四学級編成として、厚賀小学校から一教室、屋内体操場を借用し開校した。時は昭和二二年五月一日である。
 同年の秋になって新校舎建設することになり、建築土台コンクリートの砂利採集、校地の地ならし、或は校地の明、暗梁、排水作業等は、皆村民の奉仕作業によって行なわれたことは、現時代と大いに異なり当時の村民の一致団結が偲ばれ銘記すべきことである。
 現校舎の土地であるが、これはもと山本秀次氏の所有にして、小学校改築予定地として四町歩を村に寄贈せるものであるが、旧校舎敷地屋外体育場、附属農場合計九、六〇〇坪である。其の後農地改革等の諸問題あって四三年九月二九日統合のため廃校となる時、校地面積(使用可能面積)を測量の結果二四、〇五一m2となった。
 現在に於ては統合中学校となり、

◎学校統合経過の概要

一、統合の大網決定
 小規模校を廃し、適性規模とし施設設備の充実と、教員組織を強化し教育効果の向上を計ることを目的として策定された門別中学校統合計画に基き、第一次統合が昭和四二年度に完了し、引続き第二次計画を実施するに当り、かねてより検討していた新冠町厚賀沢所在中学校の門別町への統合について、新冠町及び新冠町教委と慎重に協議を重ね、①門別町厚賀地区四校(厚賀中、賀張中、正和中、里平中)と②新冠町厚別川流域三校(東川中、美宇中、太陽中)を統合することに決定した。
二、第二次統合の推進
 統合の大網が決り、具体的統合計画の推進に当り統合の成否は、地区住民の最大限の協力にかかることを認識し、新冠町新冠教委と緊密なる連携のもと、第一次統合の成果を反省検討しつつ地区住民へのPR資料を配布し、各地区夫々現地懇談会に入る一方、厚賀中学校統合推進合同協議会を設置し協議を重ねた。
 各地区よりの要望、問題点は数多くあったが、最大の問題は通学対策であった。里平地区を除く各地区はおおむねバス通学を希望され、これについては第一次統合通学バス運行等を参照し、道南バスK.Kの協力を得て解決を見るに至った。里平地区は当初より一貫して強く寄宿舎建設を望まれ、その費用負担につき新冠町教委当局共々地元と数次に亘り懇談し妥決を見たわけであるが、結局最後には部落の総意をもってバス通学に変更された。
 とにかく幾多の難関はあったが、校下住民各位の暖い支持のもとに統合への歩みは着々進められたのである。
三、校舎建設の具体案作成
 以上と平行して統合校舎建設位置並びに校舎の配置、平面図の検討が慎重に進められた。
 特に校舎建設位置については旧厚賀中学校敷地その他二~三の候補地があったが、通学上の便利、町民の学校施設利用等を考慮し現在地に決定した。この決定により敷地の面積からみて三階建とし、日照に意を用い扇形校舎とし、校舎の配置にも細かい配慮がなされた。
四、統合の経過
昭和四三年九月三十日 賀張中学校名目統合
昭和四四年四月一日 賀張中学校実質統合
昭和四四年九月三十日 厚賀中、正和中、里平中、美宇中、太陽中名目統合
昭和四五年四月一日 右記六枚の実質統合なる。
五、統合の特異性
 本校の統合は異例のケースとして各方面より注目されるものであった。
①其の第一点は、二町にまたがる統合であったこと。
 行政区域を乗り越えて広域多数校の統合には、位置、財政負担、統合の形態、統合の時期等々多くの難問題が山積していた。然し両町の関係機関、町民は常に冷静に統合の狙をそらすことなく、しかも熱意をもって課題の解決に当り、極めて和気靄々の裡にこの日を迎えたのである。
②第二点は、旧学校々地内に新校舎を建設することであった。
 このことは新校舎建設に当って国庫補助金が(新校舎面積-旧校舎保有面積)分よりみられないという従来の例より大きな障壁となった。然し「保有零と認められる理由」が当局の深い御理解により、道内では初めの事例として認められたことは本統合推進上の一つのキーポイントとなるものと言っても過言でないであろう。
③第三点は、類例をみないへき地、多岐、遠距離通学路線に対するバスの配車と運行時刻表の作成である。
 このことは統合の実功を左右する重要な課題であったが、前記の通り道南バスK.Kの誠意ある御尽力により順調な発足をみるに至ったことは関係協者等の喜びとするところである。然し今後再検討を要する面について一段と努力しなければならない。

◎厚賀中学校沿革の概要

昭和二二年五月一日 村立厚賀中学校開校する。
昭和二二年七月一日 正和に分校開設する。
昭和二三年四月三日 新校舎第一期工事完成(四教室)、厚賀中学校々友会発足する。
昭和二三年五月三日 賀張分校開校する。
昭和二三年十月一日 元神部分校開校する。
昭和二四年四月二七日 正和分校々舎落成する。
昭和二四年十月二四日 第二期工事完成する。
昭和二六年四月一日 賀張、正和分校が独立校となる。
昭和二七年五月十日 小学校々舎の一部寄付を受け、特別作業室二教室が設置される。
昭和二八年九月三十日 屋内体育館及び附属建物完成する。
昭和三十年四月一日 七学級となる。校歌制定とバンド編成なる。
昭和三一年四月一日 教室一と理科準備室が設置される。
昭和三二年三月二十日 卒業生が大量東京方面に就職する。
昭和三二年八月 八学級となる。
昭和三二年十一月三日 中学校十周年記念式典挙行する。
昭和三五年 一教室増築
昭和三六年 一教室増築
昭和三七年 音楽教室増築
昭和三九年 技術科教室増築
昭和四三年九月二九日 厚賀中学校及賀張中学校名目統合のため両校廃校となる。
昭和四三年九月三十日 新厚賀中学校創立する。
昭和四三年十一月一日 統合校舎建築第一期工事開始。三階建(七七二平方メートル)
昭和四四年四月一日 統合校舎建築第二期工事開始(二、二四八・五平方メートル)
昭和四四年九月三十日 厚賀、正和、里平、東川、太陽の各中学校名目統合となる。
昭和四五年二月二四日 第二期工事完了する。新校舎に移転する。
昭和四五年四月一日 第三期工事開始(屋体建築、七八〇平方メートル)全中学校実質統合する。
昭和四六年三月十五日 旧屋体で統合第一回卒業式を挙行する。
昭和四六年八月十日 屋内体育館工事完成する。旧校舎、旧住宅四戸解体。グランド整地、排水工事する。
昭和四六年九月二六日 厚賀中学校統合落成記念式典を挙行する。

◎歴代学校長

代 氏名 在職期間 備考
自 至 期間
一代 小泉二郎 昭二二年五月 昭二四年四月 二年
二代 野田繁雄 昭二四年四月 昭二六年十一月 二年六ヶ月
三代 加藤喜久太 昭二六年十一月 昭二九年四月 二年五ヶ月
四代 田島茂房 昭二九年四月 昭三三年四月 二年五ヶ月
五代 長尾重三 昭三三年四月 昭四十年四月 七年
六代 赤坂栄作 昭四十年四月 昭四三年三月 三年
七代 笠原邦男 昭四三年四月 昭四三年九月 六ヶ月
総合初代 笠原邦男 昭四三年九月 昭四六年三月 二年六ヶ月
二代 成田茂 昭四六年四月 現在
◎歴代PTA会長
代 氏名 期間
初代 小野貞樹 自昭二二年七月十六日 至昭二四年五月十五日
二代 中村百一 〃二四年五月十五日 〃二九年四月四日
三代 谷崎亀松 〃二九年四月五日 〃三一年三月三一日
四代 阿部英一 〃三一年四月一日 〃三五年三月三一日
五代 浜本一男 〃三五年四月一日 〃三六年三月三一日
六代 細川慶 〃三六年四月一日 〃三七年三月三一日
七代 黒沢松之進 〃三七年四月一日 〃三九年三月三一日
八代 朝妻勝衛 〃三九年四月一日 〃四十年三月三一日
九代 古川繁雄 〃四十年四月一日 〃四二年三月三一日
十代 川筋正雄 〃四二年四月一日 〃四四年三月三一日
十一代 岸本典六 〃四四年四月一日 現在

◎生徒数の変遷

年度 生徒数 学級数 職員数 備考
昭和二二年 一八二 四 七
昭和二五年 二七一 六 八
昭和三十年 三二九 七 十
昭和三二年 三二九 八 十二
昭和三五年 三二六 八 十二
昭和三八年 三五四 九 十四
昭和四一年 三二四 九 十五
昭和四五年 四五五 十二 二一
卒業生徒総数(昭和四八年度まで)
二、七八〇名

第三節 高校

 厚賀高等学校々歌(昭和三六年十二月一日制定)
 作詞 戸田統悦
 作曲 福井直秋
一、茜さす 黎明の
 日高の山に 燦欄と
 光眩き 日輪ぞ
 我等が 厚賀高校の
 象徴とこそ 仰ぐなれ
二、永遠に 移らざる
 芸文の卒 馥郁と
 におい遍き 学び舎ぞ
 我等が 厚賀高校の
 殿堂とこそ 仰ぐなれ
三、道遥か 絶ゆまざる
 蛍雪の道 誇りもて
 貫きかん 教えこそ
 我等が 厚賀高校の
 教訓とこそ 仰ぐなれ

◎北海道厚賀高等学校の沿革概要

一、学校 定時制課程 生活科 季節制
 設置者 門別町
二、沿革概要
昭和二六年四月一日 総第六四一号指令により北海道富川高等学校厚賀分校設立認可さる。
昭和二六年九月五日 開校式挙行。厚賀中学校野田繁雄主任として発令さる。
昭和三十年四月一日 北海道富川高等学校道立移管に伴い厚賀分校廃止となる。臨時特例法により北海道厚賀高等学校設立認可さる。初代校長に北海道富川高等学校長山本彦一併任発令さる。
昭和三二年六月二十日 独立校舎修築完了移転する(旧中学校々舎特別二教室)
昭和三五年十二月十日 新校舎第一期工事完成(一七二坪)移転授業開始。
昭和三六年十一月三十日 新校舎第二期工事完成(八五坪)
昭和三六年十二月一日 校歌制定。並校旗制定する。
昭和三六年十二月十日 創立十周年並に新校舎落成記念式典挙行する。
昭和四一年一月二三日 体育館新築落成記念式典挙行する。
昭和四三年二月二八日 本校課程変更し、生活科設置認可さる
昭和四三年三月三一日 通信教育協力校として指定される。
昭和四三年十二月二五日 調理実習室落成する(一五四・八五m2)
昭和四五年十一月一日 温室完成(九四・五m2)
昭和四六年四月一日 定通併修生募集停止する。
昭和四六年九月十九日 創立二十周年記念式典挙行する。
昭和四九年三月十日 定通併修閉科。
昭和四九年四月一日 生活科募集停止。通信教育協力校業務停止。
◎卒業生総数 三五〇名(昭和四八年迄)

◎歴代の校長

代 氏名 在職期間
初代 山本彦一 昭和二六年四月一日→昭和三三年四月三十日
二代 高橋厚 昭和三三年五月一日→昭和三四年四月三十日
三代 戸田統悦 昭和三四年五月一日→昭和三八年四月三十日
四代 郷守 昭和三八年五月一日→昭和四三年三月三十日
五代 安保健治 昭和四三年五月一日→昭和四四年三月三十日
六代 吉村峯子 昭和四四年五月一日→昭和四六年三月三十日
七代 下村保治 昭和四六年五月一日→現在
◎歴代PTA会長
初代 圷一
二代 戸川長平
三代 佐々木保治
四代 的場操
五代 春木直蔵
六代 古川繁雄 昭和四九年度より振興会と合併 現在に至る

◎校章

厚賀のAを十字形に配し、博愛を四個のAは学校、振興会、地域、生徒がくれぐれ固く連携し、四方に伸びていくことを期待したもの
校章制定 昭和三三年
デザイン 本校職員中山敬倫先生
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