厚賀町史

URADOどんぐりかいぎ

第五章 兵事


 明治六年に徴兵令を公布して師団編成をとり、北海道にも北辺の守りを固めるべく内地より屯田兵を送り、兵農一如の開拓を兼ねしめたが、未開地の当道は言語に絶する艱難辛苦、困苦欠乏に耐え忍んできた。
 明治三一年に北海道でも日高国外七ケ国に徴兵令が適用され出した。
 然し戸籍は内地にあり、青年の多くは合格壮丁は夫々の故郷の師団に入営した。日清戦争後二九年に屯田兵制を廃し、旭川に第七師団を設置した。十年後日露戦争は我国未曽有の国難であった。当町に於て平石嘉蔵が第三軍に従軍したのが初めてである。爾来日本の軍国強兵政策は増大する許り、大正十年のシベリア出兵には、谷崎亀一、播摩儀一が参加して居た。昭和に入り遂に軍部は満洲へ出兵即ち満洲事変が勃発し、当町からは宮原金松、里深由平、高橋末吉が北満へ動員が下った。果ては日支事変、昭和十二年七月七日蘆溝橋の一発の銃声が全支那に広がり、とうとう大東亜戦争十六年十二月八日米英両国と交戦に入ったのである。その都度我が父、我が息子が厳寒の北辺に、炎熱の南方に夫々勇猛果敢に斗ったが、二十年八月十五日遂に敗戦。終ったのである。然しこの間皇国の為、護国の花と散りし益良夫の数は幾百万となった。
 戦後三十年経済復興し、生活安定、諸種の条件により今日平和の生活あるは、各戦役の従軍の方々の苦難を慰め感謝すると共に、当町一円出身者、応召従軍され、不幸にして護国の英霊となられた方の御芳名を記載して、町民各位と共にその武勲を後世に伝え冥福を祈念致したいと思うのである。(陸→陸軍・海→海軍・軍→軍属・飛→飛行兵)
字名 姓名 戦死月日 戦死場所
厚賀 吉田 一郎 昭和11・2・22 陸 陸軍病院
 柏本 辰雄 〃13・11・12 〃 満洲国チチハル陸軍病院
 阿部 敏夫 〃14・7・7 〃 大阪陸軍病院赤十字病院
 山本 正幸 〃14・8・29 〃 満洲国興安北省ノモハン附近
 海馬沢清二 〃15・4・24 〃 中国 南昌
 小池長太郎 〃16・8・18 〃 中国北支戦線
 石田将次郎 〃16・8・30 〃 七飯 陸軍療養所
 本郷孝四郎 〃18・5・29 〃 アリューシャン列島アッツ島
 田端 徳蔵 〃18・5・29 〃 アリューシャン列島アッツ島
 新井田末吉 〃18・5・29 〃 アリューシャン列島アッツ島
 谷川勇次郎 〃18・5・29 〃 アリューシャン列島アッツ島
 近藤 政一 〃18・7・18 〃 中国 中支戦線
 斉藤 久雄 〃18・10・15 飛 ビルマ国ミンガラドン飛行場
 長野 昌美 〃18・11・16 軍 南支那海洋上
 小沼 成一 〃19・1・12 陸 小倉市 小倉陸軍病院
 松崎 勇次 〃19・1・16 海 太平洋洋上
 青山 幸男 〃19・3・14 〃 南方海上
 川島 義一 〃19・7・18 陸 マリヤナ島
 平田 巌 〃19・8・10 〃 西部ニューギニヤ
 野村喜一郎 〃19・8・15 〃 西部ニューギニヤ
 佐藤 尭 〃19・8・27 〃 西部ニューギニヤ 「サルミ」
 五十嵐 巧 〃19・10・6 〃 中国 中支戦線
 片岡 真澄 〃19・10・25 海 比島方面
 星野 守 〃19・10・30 陸 本籍地
 清水 正雄 〃19・11・2 〃 中国 徐萬梁
 和田伊三郎 〃19・11・13 〃 中国 中支戦線
字名 姓名 戦死月日 戦死場所
厚賀 江上 吉松 昭和19・11・18 陸 中国 中支戦線
 山本 輝平 〃20・1・13 〃 ビルマ
 小沼 建作 〃20・2・18 海 本州東方海面
 中村 義治 〃20・2・23 〃 フィリピン沖
 後藤 勘市 〃20・3・1 陸 北千島 占守島
 小野 長雄 〃20・3・29 海 茨城県 百里原海軍航空隊
 藤林 正治 〃20・4・20 陸 カロリン諸島 メレヨン島
 高橋喜久雄 〃20・4・20 〃 ペリリュー島
 安達 武雄 〃20・4・24 海 比島 ピナツポ山
 高橋 徳蔵 〃20・5・2 陸 沖縄本島 首里
 水上 実 〃20・5・2 〃 沖縄本島 首里
 磯貝 倉彦 〃20・5・5 〃 沖縄本島 首里
 中川 鶴吉 〃20・5・13 海 太平洋洋上
 小西 実 〃20・5・27 陸 カロリン諸島 オッタカイ島
 堀江 義雄 〃20・6・18 〃 沖縄本島 国吉
 星野 勲 〃20・6・22 〃 沖縄本島 真栄平
 田端 隆 〃20・6・24 〃 沖縄本島 国吉
 広富 時一 〃20・6・27 〃 沖縄本島 国吉
 入倉 一郎 〃20・8・14 海 広尾沖
 西内 態吉 〃20・8・17 陸 樺太 古屯七星山
 富田 寛一 〃20・8・18 〃 千島 幌莚島
 山口 官平 〃21・1・7 軍 満洲国
 市原 篤 〃22・6・15 陸 佐賀国立病院
 田端 繁春 〃24・1・16 〃 樺太 古屯
 柳瀬 徳治 昭和21・3・8 〃 ソ連沿海州ノリキーク
 第三四七五分院
 以上五一名
正和 菊地 正春 〃15・2・16 陸 陸軍病院
字名 姓名 戦死月日 戦死場所
正和 前原 哲雄 昭和15・3・3 陸 満洲〇〇陸軍病院
 生出 喜一 〃16・5・15 〃 中国 北支戦線
 松山 岩雄 〃19・4・27 〃 バーシ海峡
 谷川 八郎 〃17・7・26 〃 大阪陸軍病院
 角所 政次 〃19・4・26 〃 北緯一八〇分東経一一九四一
 佐々木良策 〃19・7・12 〃 中国 湖北省 漢国
 土屋 要 〃19・12・31 〃 ペリリュー島方面
 吉富 正夫 〃19・8・14 〃 ビルマ
 山本 敏 〃18・11・2 飛 ソロモン諸島方面
 伊藤 豊 〃20・4・19 陸 太平洋上 厚賀沖
 坂井 喜一 〃20・5・4 〃 沖縄本島 真栄平方面
 滝川 四郎 〃20・5・16 飛 沖縄 神風特別攻撃隊
 伊藤喜代造 〃20・5・17 陸 沖縄本島 真栄平方面
 土屋 恭平 〃20・6・16 〃 沖縄本島 照屋方面
 川原小太郎 〃20・6・21 〃 沖縄本島 照屋方面
 以上一六名
美宇 草木 太一 明治38・1・26 〃 日露戦争
 牧野 勝一 昭和19・7・27 海 南洋郡島
 小形 丑蔵 〃19・11・6 陸 西部ニューギニヤ
 平山 松雄 〃19・11・25 軍 ボルネオ
 中川 繁 〃20・5・15 軍 南方海上
 木原 釈 〃20・7・30 陸 ソロモン島
東川 佐藤 猛 〃14・7・4 〃 満洲国興安北省ノモハン附近
 以上六名
共栄 高橋 佐一 〃17・5・15 海 横須賀海軍病院
 伊藤 正治 〃19・6・19 陸 南太平洋上(ショウカク空母)
字名 姓名 戦死月日 戦死場所
共栄 高橋秀太郎 昭和20・4・28 陸 沖縄本島
伊藤 信吉 〃20・7・17 〃 レイテ島 ビリバヤ
杉本 竹一 〃20・8・13 〃 中華民国山東省
高橋栄太郎 〃21・9・15 〃 台湾
 以上七名
大狩部 高橋 正雄 〃19・11・29 海 太平洋方面
奥山 治郎 〃20・1・6 陸 広南省 兵站病院
高橋 芳雄 〃20・2・17 海 小笠原諸島
 以上三名
賀張 松井 与吉 〃12・8・18 陸 中国 北支戦線
瀬戸 長治 〃17・5・13 〃 ガダルカナル島
沼島 誉 〃17・6・25 〃 栃木県陸軍病院
平清水末吉 〃19・6・10 海 小笠原諸島
桑田 尚樹 〃20・4・4 陸 沖縄本島
沼島 強 〃20・4・29 〃 沖縄本島
加藤 清 〃20・6・25 〃 沖縄本島
佐々木省吾 〃21・4・9 〃 シべリヤ
 以上八名
 計九一名

◎大東亜戦争

 昭和十二年七月七日蘆溝橋事件を発端として我国は戦乱の過中に突入するに至った。
 当町内の多数の壮丁が軍歌、ブラスバンド、万歳に送られて勇躍征途にのぼったが、戦局が苛烈になるにつれ護国の英霊として無言の凱をするものもあり、国民精神総動員は当時国民の実践標語であった。昭和十三年には生活の簡素化、賛沢の禁止、労務対策、農事改良など戦力増強の方策が強行され、学校に於ては尽忠報国が教育の中心目標となり軍人志願が大いに奨励された。昭和十五年には物品に公定価格がきめられ配給制となり、必需品には切符制が採られたので国民は非常に困窮した。同年十月には大政翼賛運動が発足し、町内会、部落会が組織され興亜奉公日が制定された。かくて国民は臣道実践を強制され末端組織として隣組常会を開いてこれに即応した。
 昭和十六年十二月八日遂に国際情勢は悪化し、米英に対し宣戦が布告され挙国決戦体制となった。国民は一抹の不安を抱きながらも統制された報道機関の勝利のニュースを喜び当局の指示に従って銃後の活動につとめた。この頃必需物資の統制はますます強化され貯蓄も半強制的だった。人的資源の不足によって壮老年者が工場、炭鉱などに相ついで稼働し出征遺家族のために奉仕した。農作物は全部食糧作物と応戦作物に切り替えられ、非農家でも食糧補給のため自家耕作が盛んとなり、市街地であろうが郊外であろうが寸土の空地もないまでに耕地と化してしまった。服装も男子は戦斗帽、国民服、ゲートル、女子もモンぺ、地下足袋などをつけ、他出する場合には防空頭巾や、鉄カブトを背負った。いたるところに防空壕が掘られ、しばしば防火管制、避難防空訓練が繰り返され、婦人老人まで狩り出されるほどになった。 栄養は次第に低下し薬品類は欠乏、国民は挙げて窮乏のどん底に陥った。愛国心に燃え一億火の玉となって戦っているはずなのに、物資の欠乏に法網をくぐってヤミが横行し犯罪が増加するという奇現象を呈するようになった。
 昭和十七年四月には本洲の中部地方に米機の来襲があり飛行機の不足が痛感され、その増産が挙国最大の目標になったが、終戦近くには木製飛行機も登場するような有様だった。当町からも相当量の原木が搬出された。翼賛壮年団、在郷軍人会は悲壮な決意のもと戦意の昂揚と沿岸防備にあたった。かくして昭和十八年も過ぎ、昭和十九年に入ると都市に於ては疎開がはじまり、当町にも縁故をたどって来住する人々が見られるようになった。人々は必勝を確信し大本営の発表による戦捷の報に胸をおどらせながら勤労奉仕にいそしんだのである。然し乍らこの年ミッドウェー沖海戦の悲報以来戦況は日をおって不利となり、国民はひそかに不安を感じるようになったが軍部の指導方針である最後の必勝をあくまで信じ『必勝の信念』『必勝不敗』を叫び防空頭巾、鉄カブトとに武装、巷に物々しさを加えながら戦争遂行に最後まで協力した。

 昭和二十年春には襟裳に米軍の艦砲射撃があり、四月には千島から沖縄救援のため輸送船が当町厚賀沖で米潜水艦に撃沈され、多くの戦没者が沿岸に打ち揚げられ町民をして暗然たらしめた大悲惨事も発生した。そして六月に入るとついにB29の来襲を受け、七月中旬には当町沿岸は熾裂なグラマン戦斗機の銃撃によって死傷者を出すに至った。ついで広島、長崎に原爆被害の悲報はまさに青天の霹靂で不安は極度に達し、かくするうちに八月十五日終戦の詔書が天皇御自身によって放送され、人々はこの放送を聴いていい知れぬ感慨に慟哭あるいは鳴咽し誰しもが虚脱、放心の状態となった。そして占領軍の上陸を思い恐怖の幾月かを過したのであった。
 終戦によって暗い遮光紙がはがされ電灯は市街、部落に明るく輝き、人びとは戦争の暗さから次第に明るさをとりもどしたが、衣食住の不安は如何ともしがたく敗戦国民の悲しさを身にしみて感じ、食糧の確保のために誰もが血相を変え狂奔するという惨めな有様であった。この無謀な戦争中の記録の大半は終戦後混乱のうたに焼き捨てられ、人びとの間にもその記憶が忘れられようとしているが、当町に於て撃沈したる輸送船大成丸についてあのような不幸を二度と繰り返さないためにも大切なことと思われるので記述したいと思う。

◎輸送船大成丸について

 終戦の年、即ち昭和二十年四月十九日午前〇時十五分頃、当町厚賀沖合約五Kmの海上で追跡して来たアメリカの潜水艦の魚雷を受けて沈没した大成丸(一、九四八トン)に乗船していた軣旅団及び混成部隊の将兵一、五〇〇名のうち約六〇〇余名が十数時間の苦斗の末救助され、残りの戦友は悲憤の涙をのんで海中に没したのである。その日はミゾレ降り海は荒れ、町民は総出で救助作業に宿泊等に専心之がつとめ、惜しくも亡き戦友の遺体は数十体を厚別川の辺りで火葬にし、その一部を遺族へ残りは弘専寺の墓地に『大成丸報恩之塔』の墓標を建立し埋葬、毎年その命日には一致会、婦人会が主催して手厚く殉難した将兵の冥福を祈って来たのである。 処が墓標が朽ちてここに昭和四十年七月十九日睦婦人会員の協力により全町民より浄財をいただいてここに立派なる大成丸英霊報恩の塔が弘専寺の境内に建立、除幕式を行ない全遺骨を移葬し、盛大に報恩供養をしたのである。明けて昭和四一年四月十九日数えて第二三回忌に当り、テレビ、ラジオ、新聞等に報道した処、道内は勿論遠く兵庫、東京、群馬、秋田などから遺族、生存者数百人が参集。漁船による海上法要と塔碑前では自衛隊音楽隊による装厳なる演奏の中、一同より『報恩』の二字をしたためた額を贈られた。それは書家の『柳恵』本名得能幸恵さんが精魂こめて書き上げたものである。
 尚大成丸英霊報恩之塔の碑文を記し永久に戦友の霊よ安からんと念ずるものである。

◎碑文

 時恰も大東亜戦争の末期、在北千島軣旅団、第一大隊及び混成部隊は沖縄本島に於て苦斗する戦軍を救援すべく昭和二十年四月十三日輸送船大成丸に乗船し、急遽南進せり。然るに同月十八日夜半エリモ岬沖にて米潜水艦の猛攻をうけ応戦敢斗及ばず、翌十九日午前一時厚賀沖にて大成丸はその勇姿を海底に没しぬ。この日風雪強く寒冷肌をつき浪また高し。未明この悲報に接したる厚賀町民は漁船の総力を挙げ、竿頭の日章旗波浪にあらわれ乍らも決死の救助作業を開始し、激斗十数時間実に六〇〇余名を救助せり、然れども寒気と疲労のため多数の将士を失いたるは悲憤限りなし。この間町民あげての英霊並に生存者への処遇は肉身に接するが如くその同胞愛は長く青史に伝えられん。祖国の隆昌を希いつつ大義に殉じたる春秋夢多き勇士等の死は惜しみても尚余りあり。 ここに我等その功績をしのびつつ尊き平和の礎として北辺の海に没せし将士の英霊に対し合掌冥目し、謹みて哀悼の誠を捧ぐ。願くば安らかに眠られんことを。
昭和二十年四月十九日

軣部隊戦没勇士に捧げる歌
一、戦雲暗く 急を告ぐ
 春まだ浅き 北千島
 我が軣の 精鋭に
 沖縄奪還と 命下る
二、霧の占守を 後にして
 大成丸は 粛々と
 ああ春四月 十四日
 目指沖縄 指して行く
三、天命なるかな 十九日
 雨はしとしと 涙雨
 宵闇明けぬ 午前一時
 襟裳の沖に さしかかる
四、軣然 軣く 百雷に
 一瞬船は 闇の中
 ドット押込む 水の音
 火の臭い 鼻をつく
五、豪胆無比なる 我が戦友は
 自ら歌う 軍歌
 船は次第に傾いて
 歌う軍歌も 悲しけれ
六、三々五々と 海の中
 消えゆく戦友を 目前に
 ああ惨たりし このすがた
 涙で送る このつらさ
七、呼べど叫べど 帰らぬ戦友を
 厚賀の浜で 待ちわびる
 御霊よ帰れ 戦友のもと
 御霊よ帰れ 父母のもと
終リ
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