厚賀町史

URADOどんぐりかいぎ

第四章 産業


第一節 農業

 農業発達の叙述 明治二〇年山本森太郎が豊田に入植し農耕に従事したのが最初である。(現古川博附近)当時の地帯は古川繁雄から浜本俊則間は茅原で姉川儀一から戸川長平迄が灌木及び茅原であり、川原寄りは森林地帯であった。二五年には山本勝三郎が入地し、引続いて川島徳一、古川弥平、堤某が移住して来た。一方美原に於て明治三一年に小田平左エ門、田端徳左エ門、田中善戒等が福井より入植し、一面茅、タコツぺ原の生い茂る未開の地に不撓不屈の信念に燃えて開墾の鍬を打込んだのである。遂年夫々の地域に入植者の増加により急激に開墾も進み、道路の開通、排水溝等献身的努力を傾倒し、以って本村農業の向うべき姿を示したのである。明治末期の開墾面積は約二十町歩というが、実に尊き血と汗の結晶と思うと粛然として襟を正すのみである。 耕作地の一つとして旧局舎前から浜賀張(コマチップ川)間が一面畑で燕麦を作付けしたという。収獲後は草競馬、運動会を行なう。地理的に於ても絶好の場所であり、その前方には小高き砂丘あり。『浜ナス』の花が咲き乱れその下方二〇米が海岸であった。現在我々は当時の姿を想像し得るであろうか。又雨天時には吉原番屋(漁場)があり休憩したものである。
 さて開拓から大正末期迄は凡て畑作一点張りの農耕作業で、大豆、小豆、燕麦が主要産物であり、大豆一俵二円三〇銭、小豆一俵三円五十銭であった。開拓より十年位は無肥料で連作し、肥料の使用は明治末期に過燐酸一俵(八十K)一円三十銭というからその時分から実用肥を施し出したのであろう。肥料なしで反収二~三俵であってよく穫れたものである。
 当時の主食としては『ヒエ』『イナキビ』『ムギ』等で、米は正月、盆、病人のみであり、何とかして米を作ってみようと、明治三三年浅山直が内地から種籾を取り寄せ『ユサ』の沢水を利用して水田試作を始めたのである。(現森永治雄西)之が本村水田の元祖である。当時は浅山直の所有地で、田中善戒が試みたという。水苗代で肥料なしでも二俵の収穫があった。米は青米にして全然ネバリ気なく、ヒエ等の主食に糧として食べたのである。当時としては驚異的なことであり、北限地帯に於て米の耕作が出来ることを確定したことは賞讃すべきことであり、之実に水田開発の嚆矢となり、今日の大豊田の土台を打立てたのである。面積は一~二反であるが、後四四年に豊田に於て古川家の沢水を利用して米の試作をしたのが、安達弥三次郎で一反程であった。当時米は一俵四円という。  畑作も豊凶作の波の中に於て耕地面積の増加を計り、漸次収穫を増しつつあったが、次第に畑作の行詰りを生じつつあった。即ち連作による地力の消耗は収穫高の減少を来し、病虫害による被害、農産物の価格の変動等致命的打撃にして、且つ茅、タコツぺ原であり、畑作転換の急務なるを痛感し、ここに造田計画を立案するに至ったのである。それは僅少なる水田試作が将来へ伸長発展を充分に嘱望するに足るものであったからである。大正十一年に厚別土功組合が設立し工事に着工。十二年に完成を見るに至り、いよいよ水田の実現を見る事が出来たのである。当初は水苗代で五月上旬水田に苗代を作り苗を育て、六月十日から二十日にかけて植えたものである。当時は勿論ゴム長沓はなく、田かき人も田植えする女の人達も皆跣足でやるより外なかった。田植沓が出たのは戦後である。 苗植え許りではなかなか大変であって直蒔器で一手動で十六株位づつ籾種を落して行き、一日で一人で五反位始末出来た。終戦後二~三年迄水苗代と直蒔を四分六分か、三分七分に併用したものである。反収四~五俵が豊作で三俵が平年作であった。然し気候不順、病虫害等により凶作の年もあった。特に昭和十年、十六年は当地方の大凶作、二十年とあり、十年の凶作時には救済事業の一つとして美原地区川岸に一大堤防工事が同年秋より十一年春に渡って実施され、農民はこぞって仕事に励んだものである。当時馬は二円五〇銭、男子が五〇銭、女子が三五・六銭であり、最後には人出多く二八銭であったという。然し凶作にも負けず堅忍不抜の精神に燃ゆる先人達は、あく迄も初志を貫徹、邁進し、品種の改良、施肥、耕作、除草、病虫害、収穫の研究等粒々たる辛苦を重ねて来たのである。 一部十八年苗代の方法として温床苗代が試験的に山田助一が半反、戸川長平が三畝程始めたが、ドロオイ虫の防除の方法なく収穫も少なかった。然し戦後二三年頃から、天崎某の指導により冷床による苗作が始まったのである。之が急速に進み遂年増収をみることが出来た。原因としては反収の高いこと、直蒔に比して籾種が五分一以下でよいこと。草取の簡易なこと等である。豊凶の差はあるが、六~八俵となり、四二年は史上最良の豊作年であった。一方現在の大狩部(川向い)の水田であるが、旧用地一部と大蔵省の土地であったが、戦後耕作者が買受けて畑作地帯であったが、水田を作ろうと中川朝雄のロ火により、三十年川上二二町歩、三七年に川下十二町歩が造田され、有一の多収穫地帯となった。三五年に川上に機械化造田(ブルによる)が実施し半反が大きいか、三~四年後に個人により現在の大凶計画割にしたのである。
 精米であるが、昔は水を利用した『バッタ』或は水車でヒエや籾を精白にした。籾えりは『土臼』で手動し、馬による方法も考え出した。山岸の川筋附近に水車場が最後迄残って居った。精米場として浜賀張では富永、木炭ガスエンジンで広富周造がやっており、大正十五年に浅山精米所が設け脱穀、精米等を本格的に始め米の売買などもし大いに利用され近年迄続けて来た。戦後機械の普及により夫々各戸が籾スリ、精白機を求め出荷したのである。
 凡て住人ある処道路ありで、開拓に当り道路の開削が急務を要したが昭和初期迄の現在の正和道路は道路でなく泥んこ道であった。春秋二回に砂利を袋に入れ馬に付けて運んだもので、特に美原地区は想像以上の悪路で難儀したものであり、昭和七年に浜本安次郎が先頭にして道路修繕事業に精魂を傾け一生を貫いたのであるが、近年室蘭土木の管轄になる迄村民全戸出動汗を流したものである。
 米の値段については、昔から物価、賃金の標準となって居った。又米相場と言って投機、睹事の対象ともなり、東京は深川、大阪でも堂島などに市場があって、豊作、凶作以外に、人によっても米の値段が上下して米作農家を一喜一憂させたものである。これは大東亜戦争の米穀統制(十四年)令を政府が行なう迄続いたのである。戦時中から戦後今日至る迄、安い安いと言い乍らも、安定して農村社会の今日落付いた経済と営農計画を建てることが出来たのである。
 機械化農業 開拓より明治末期迄は鍬一丁で耕作し、末期になってプラオによる進んだ耕作が終戦後迄続行して来た。ここに戦後軍需産業がなくなり、平和産業に切替えられあらゆる部門を大改革した。特に戦車工業は土木事業に偉力を発揮するブルトーザーとなり、農村の土地改良に進出し、馬耕に代るテーラ耕転機、トラック、乗用車を提供した。発動機類も大小農作業に見合う軽量化となった。先づ田の耕起は耕転機となり、耕馬は殆んどなくなり、代カキもテーラ化され近時はトラクターに替りつつある。堆肥の運搬も四輪自動車、トラクターとなり、夏のゴロ押しも除草機になり、現在は除草薬により皆無となった。昔朝四時頃から舟形網で葉先をすくって歩いた苦役も手動撤粉も動力に、七~八月の病虫害防除も共同作業による高性能防除機使用となった。 畦刈はブラシカッター使用となり、稲刈りはバインダーを使うようになり、最近は小型バインダーにより一挙に稲刈り、脱穀という道が開けつつある。昔足踏脱穀機をしたものが自動式脱穀機となり、最近は稲架不要の生脱穀、火力乾燥にまで進んでしまった。驚くべき進歩の発展である。調製は昔の土臼籾摺りより岩田式のものも出来、又ゴムロールによる籾摺り選別を一挙に行なう時代となった。三五年頃迄の自家製の俵による煩雑手数のかかる包装は『カマス』と代り、四二年頃より世界的レベルの麻袋入りとなり、いよいよ農作業の簡素化、スピード化し、トラックによる農協倉庫持込になったのであるが、戦後三十年のめまぐるしい世の変遷には只々感服するのみである。

 農地改革 大正年代に入り漸次小作地が増大の傾向を示し、年貢などで地主と小作人との対立関係が深刻となり社会不安を招く恐れもあり、大正十三年小作調停法が施行され、更に昭和二年自作農創設維持資金貸付規定により、新規事業として実施された民有未墾地解放計画によって自作農の創設が開始され、更に九年に農地調整法の公布をみ、翌十四年には小作料統制令を公布して小作農の耕作権の保護と小作料の金納化をはかった。戦後に於ける食糧不足、失業者、引揚者の農村への受入の必要、更に連合国側の日本民主化の基本方針は、戦前の農業立法よりも徹底した農地制度の改革を行なうに至った。即ち二十年十二月農地調整法改正案が議会を通過し、第一次農地改革に着手したが、之に不満をもった連合軍総司令部は、翌二一年十月最高司令官の覚書(農地解放指令)によって強度の措置を要請した。 之に基き農地調整法の再改正と自作農創設特別措置法が制定、第二次農地改革が断行されるに至った。之により不在地主は強制買収の対象となり、在町地主二町七反を限度。自作農は七町二反の外採草地三二町八反の合計四十町歩が保有限度として定められた。あく迄も日本民主の促進を計るには封建的社会の基盤をなす農民の民主化が先決条件であると考えたこと。耕作農家の地位安定、土地の農業上の利用増進、生産発展を促進とした目的であった。かくして改革により農村の封建的遺制は取り除かれ、小作人は今迄の小作地が自分の土地となり明るい希望のもとに本業にいそしむことが出来るようになった。
 然しこの改革は土地所有権の移転であって解放後の営農に対し何等の保護施策なく、今迄の小作料に代って土地費、所得税、地祖などが負担増加となり、尚インフレの浪による農地の維持困難は、せっかく手にした農地を手離さなければならない苦境に一部の農民を追い込んだ。このような状況下に二五年八月に農地価格の統制徹廃があり、このため農地価格は高騰の一途をたどって再び農地の売買が行なわれるようになり、一時は農地改革も崩壊かと危ぶまれたが、農家の経営、経済も順調となり今日に至っている。

◎産業施設

 土地改良事業 本村も低地帯多く暗渠排水の施設を要する面積が相当あり、又高台地帯にかけ酸性矯正を必要とする土地もあり、昭和十二年道補助規定により暗渠排水を実施して来た。更に十五年には素焼土管による排水事業を奨励し、之に客土事業を併行させて現在に至っている。この土地改良の結果、今日の美田、良畑牧草地となり、生産力増強の功績は大なるものがある。二七年に門別士地改良区として発足。厚賀地区二一六町七反の改良を行なった。
 展示圃と採種圃 展示圃は農業試験場、その他で確認された新品種や耕作方法、技術などを田畑にうつして改良の意欲を高めている。二四年から実施している。採種圃は優良品種を早急に多くの農家に普及するため農業試験場、その他に於て採種したものを、特定農家に委託して採種するものである。又農業生産奨励設に対し、奨励金交付して尿溜、サイロ、堆肥場などが作られた。

◎農業機械

 農業委員会 昭和二六年七月農地委員会、農業改良委員会、農業調整委員会の三者を統合し、選挙による委員と、選任による委員によって発足し、目的は農業行政に農民の声を反映させ、一切の農業施策を農民の希望するようにして生産力の増張と経営の合理化を促進し、農民の地位向上に寄与する民主的な農民の代表機関である。
 農業改良相談所 特に戦時中戦力増強と生産の強化を計るため農業会法が発布され、之により十九年に農業会が設立。一段と推進され、戦後道費による指導は農場の設置をみ、主要作物の品種、肥料の試験を行なって展示し益する処大なるものがあった。二三年農業改良助長法が公布され、道の技術員である改良普及員が常駐してよりよい相談相手となり経営の合理化に邁進している。

◎厚賀農業協同組合の変遷

 明治三六年一月に門別全村を区域とする沙流購買組合が組織され、監事に当村から山本森太郎、山本利平が選ばれ、出資一口二十円で組合員の生計上必要な物品の購買、生産物の販売などを行なったが、四三年十二月に解散、ここに昭和三年六月七日、厚別信用販売購買組合が独自に組織され、理事に森永新耕、古川嘉平、山本勝三郎、監事に小田久、小西安吉が就任し、産業資金の貸付、貯金の取扱い、生産物の販売、産業経済必要品の購買を行なってきたが、戦時中十九年に全町一本の門別村農業会に組織替え一月解散、戦後農地制度の改革に併行して各種団体も整理統合され、ここに二三年三月十五日に現在の如く夫々三組合に分れ発足した。改革当初はインフレ時代で経済的に非常に混乱を続けたが、後年終焉状態となり農家経済も安定し、組合事業も次第に軌道に乗るようになった。 各種農産物の統制徹廃によって組合本来の姿となり、農業生産指導から耕土の改良推進、蓄産諸施設の完備、更に購買事業に於ては必要資材の供給、又販売事業の活動等、農家経済にもたらす利益は直接、間接を問わず大なるものがある。
 当組合も施設整備拡充のため、昭和三六年に組合事務所を新設し、購売店舗を四一年に新築した。又正和支所に農業倉庫の新築四二年に事務所を四三年に引続いて建段する。駅前には準低温倉庫を四三年に、食糧事務所を四六年に夫々設置し、斯様に組合設立以来運営も順調に進み、経営の基礎も磐石となって組合員の深い信頼をうけ、農民の自主的組織として益々発展を期待されている。
 左記に厚賀農業協同組合の現況を記す。
一、組合創立年月日 昭和二三年三月十五日
二、組合長 初代 庄野哲二 自S23・3~至26・2
 二代 田端保 自S26・2~至31・4
 三代 森永新耕 自S31・4~至37・4
 四代 古川繁雄 自S37・4~至40・4
 五代 里深幸八 自S40・4~現在
三、歴代参事 初代 桜井宣輔 自S23・3~至26・2
 二代 高木薫 自S26・3~至29・2
 三代 川森芳太郎 自S29・3~至34・4
 四代 山田弘 自S34・5~現在
四、職員数 二九名(内パート二名)
五、組合員数 一七一名(内準組合員二二名)
六、役員 理事 里深幸八、森水治雄、前川万平、草木俊夫、角所重次、樋口喜久男、谷口光義
 監事 佐藤京一、富本満、小西芳幸
七、青年部 三八名 部長 古川渉
八、婦人部 一二五名 部長 富本とし子
九、自己資本 八八、五七二千円
十、固定資産 六七、六八七千円
一一、外部出資 一二、六二〇千円
一二、施設 事務所(二ケ所)二五七、五㎡、店舗(二ケ所)二八三、三㎡
 購買倉庫六棟 七六〇㎡、農業倉庫三棟
 八二九、二㎡、食糧事務所(一ケ所)一〇二、三㎡、住宅六棟 四九六、〇八五㎡
一三、地区概況 水田 二八五ha(内休耕八八)
 畑 五九五ha(内採草放牧地三七〇)
 乳用牛 二五三頭、肉牛 五〇五頭
 軽種馬サラブ 二三五頭、アラブ 一三六頭
 豚 八三三頭、鶏 一、五〇〇羽
一四、事業概要 貯金 四八五、〇七九千円
 借入金 三六九、二五九千円
 貸付金 五二六、〇三四千円
 預金 三四八、九一〇千円
 長期共済保有高(保障) 一、三〇〇、五二〇万円
 販売品年間取扱高 六三八、五三六千円
 米 二八八、五三一千円
 牛乳 二六、〇三四千円
 肉牛 一六八、九二三千円
 豚肉 四四六、〇一一干円
 軽種馬 一〇三、六四〇千円(市場売分)
 アスパラ 三八六千円、その他 二、九四三干円
 購売品 年間取扱高 五一〇、九八三千円
 生産資材 三四四、七二一千円
 生活資材 一六六、二六二千円
 S五十年二月末現在決算
 門別町農業共済組合 この組合は農民が不慮の災害によって受ける食糧作物、家畜などの損害を補償するため農業共済法に基き設立されたもので、その財源は農民の掛金の形で出資運営される社会事業組合である。昭和二三年に設立され、二五年から家畜損害防止、疾病の早期診療を目途に家畜診療所を当地にも設置し農民の期待に荷負っている。

◎福籾地区の開拓

 当町の開祖である中村与吉が資産改革の時申請して函館の石塚弥太郎と門別の飯田某へ夫々分け与えたのが福籾地区であり、又山本利平の土地も之に加っていた。石塚の土地が賀張川から玉水川間、山林約六五〇町歩あり牧場としてその管理人が池田直次郎であった。整耕監査が通ると馬約一〇〇頭を放牧し、福籾道路入口から三K地点に石塚牧場の当時としては広大な馬小屋を建設し、橋本鶴次郎が現地の管理を引受け、明治三三年頃から大正末期迄やっていた。之が福籾の草創である。当時の福籾は処により大木密集の森林地帯があり、一部では一面茅原地帯もあったが主として造材事業が行なわれた。材木は『柏』でその造材に入地した人々は、現入口から真下、口カンテ、山口忠平、乙部、海馬沢幸七、厚別多吉、高橋喜市、橋本牧場、中村勇松、上垣、石田若次、岡村、石川森之進、最奥地に村上倉治(大正十二年入地)であった。 造材一方で農耕作はしていなかった。現在は当時の入地者は居住せず。又賀張の松井昌彦附近一帯には、苫小牧の藤田製炭部が製炭事業を大正初期から行なって居り、富川迄馬車で出荷していたという。一方造材の後を昭和十二年に○炭が製炭に着業し、その責任者が宮腰彦松であり、釜も二〇~三〇ケ所設置し活発に事業は行なわれていた。その当時炭焼に入った人達が夫々開墾に従事し、戦後買受け個人の上地となった。
 又玉水川から厚別寄りの土地は山本利平が駅停をやって居た頃、馬の放牧のため出願して土地を払下げしたもので約一〇〇町歩余り有し、奥地上流三角地点まで続き、附近に一部二人の所有地があった。大正三年に里深宇平が現墓地附近に入植し、一面『柏』の森林を開墾し、又奥地には山岸の人々が畑作業の開墾に汗を流し、昭和十四年の地作農創設により夫々開放をうけ、戦後マッサー指令により第二次解放をうけて個人の自作地となった。戦後は急速に開拓され、広大一面の畑作地帯となり大小豆、エンバク等を作付けして来たのである。
 近年急速に軽種馬生産が盛んとなり内地の大手が牧場経営に乗り出し絶好地の開拓された福籾地帯が一大牧場地に急変した。現インターナショナル牧場、大塚牧場、松風牧場と大きく土地は夫々買収されてしまった。四四年からパイロット事業が開始されて一面の大平原となり四七年完成した。(一六〇町歩)今日昔の森林地帯の『柏』は一本もなく、遠く白煙たなびく樽前山、眼下に白波たつ大平洋を望見し、道路は整備され砂ほこりをたてて車は走り、電灯はこうこうと照らし、水道、電話も施設されている文化の生活を人々は送っている。斯様な高平原にこの福籾はなろうとは如何なる人達も相像し得たであろうか。昔の面影何処にありや。明治、大正、誠に遠く、血と汗で築いたこの福籾の先人に深甚なる敬意を表し、尊風を記す。何おか云わんや。

◎畜産業

 農業経営の近代化はすべて拡大され、食生活の改善、向上と共に乳、肉、卵等の需要は自然蓄産の発達を促進し、併わせて文化の進展と、レジャーブームは軽種馬の生産飼育にも拍車をかけ、今や米についで本村産業の根幹をなすものである。
馬産(一)一般馬 歴史は古く開拓当時既に四尺二・三寸の土産馬が放牧せられ、耐寒性に強く、粗食に耐え、この馬を五円の価格にて買い求め一戸数頭を飼育し開墾作業に利用したのである。特に駅停に於ては交通機関上なくてはならない馬であった。大正初期よりの木材伐採事業の勃興するに当り、大勢は重種生産に傾き、即ち大型のペル系とアングロ・ノルマン系を種馬とした挽馬が繁殖育成されて来た。その後戦時中は中間種の小格輓馬が軍用馬として専ら育成され、兵器として戦線に大活躍をしたものである。戦後再び農耕馬、輓馬として飼育されて来たが、機械類の発達により遂年減少し、反面不幸にして肉加工に相当数の販路をみるうき目になって現在では皆無となった。
(二)軽種馬 良馬、駿馬の産地として全国に冠たる日高地方として本村も又その例にもれず、昭和初期より古川両家、浜本浪太郎が軽種馬の生産に励み、戦後二五~六年頃から一般農家もぽつぽつ初め出して来た。急速に育成され出したのは三十年頃からで畑作地帯は放牧、採草地となり、遂年需要は増加し現在の競馬場に於けるレジャーは益々盛んとなった。然し一時どんな馬でも購買されていたが、今では余剰をきたし、量より質の傾向となり優良種牡馬の導入などにより質の改善が図られ、なかなか育成も多難な時代になりつつある。
酪農 牛は昭和三年頃山本勝三郎が乳牛を飼育したのが草分けで、四年頃に富永武雄が引続いて育成し始めたのである。主として自家用で余分は町へ分け与えていた程度であるが、十八年頃に組合を結成して出発したが、当時は余分は三川の雪印会社へ汽車で送ったものである。山本、中川、田村三戸であった。富永は戦前戦後近年迄市販をやっていた。戦後乳中の増加をみて二三年に松浦横へ集乳所を組合で設置し、二五年頃から急速に発達をきたし酪農振興会が誕生し、三十名余りの組合員によって盛大に運営され、集乳したのは三川、早来へ送った。二八年に正式に認定されて駅前横に雪印の集乳所を設置した。三八年には現山本工務所資材置場に敷地一反歩を購入して集乳所を開所し、雪印直営で車で集乳し静内工場へ輸送した。日産二十石余りであった。 然し発展した乳牛も乳価の変動により左右されがちであり、日高管内独占企業であった雪印乳業に対抗して不二家乳業が進出した結果、集乳の競走も激しくなり、乳牛も増加の一途をたどり人工授精事業も充実されるようになったが、造田ブーム、軽種馬ブームの波におされ、飼育頭数も減少し始め、遂四九年に日高から雪印会社は姿を消し、現富川にネッセル工場のみとなった。乳牛の生産は欠くべからざるものであるが将来に一抹の不安もあるが、酪農家の不撓不掘の精神に待つのみである。一方現在は肉牛の生産が活発に行なわれている。
日本全国平均米値段表(円以下四捨五入)(生産者米価T四等平均)
年号 単価 年号 単価 年号 単価 年号 単価 年号 単価 年号 単価
 円
明治20 ?、五〇 大正9 一〇、〇〇 昭和6 七、〇〇 昭和17 二五、〇〇 昭和28 三、三八四 昭和40 六、五五〇
25 ?、三〇 10 一四、〇〇 7 九、〇〇 18 二五、〇〇 29 三、七〇八 41 七、一五〇
30 六、〇〇 11 一四、〇〇 8 八、〇〇 19 二五、〇〇 30 三、九〇二 42 七、八〇八
35 五、〇〇 12 一二、〇〇 9 一〇、〇〇 20 六〇、〇〇 31 三、九八六 43 八、二六〇
40 五、〇〇 13 一四、〇〇 10 一一、〇〇 21 二二〇、〇〇 32 四、一〇四 44 八、二六〇
44 六、〇〇 14 一三、〇〇 11 一一、〇〇 22 七〇二、〇〇 34 四、一五四 45 八、二六〇
大正元 八、〇〇 15 一四、〇〇 12 一二、〇〇 23 一、四五八 35 四、一六八 46 八、五二二
3 四、〇〇 昭和2 一一、〇〇 13 一三、〇〇 24 一、七五九 36 四、四七一 47 八、九五四
6 八、〇〇 3 一〇、〇〇 14 一五、〇〇 25 二、四一九 37 四、八七一 48 一〇、三〇一
7 一五、〇〇 4 一〇、〇〇 15一七、〇〇 26 二、八二〇 38 五、二八一 49 一三、六一五
8 二〇、〇〇 5 六、〇〇 16 二〇、〇〇 27 三、〇〇〇 39 六、〇〇〇

第二節 林業

 明治末期より大正時代にかけて海外貿易の進展は造材業の勃興を促進し、一方大正末期より盛んになり、昭和に入ってからは民有林に於ては一層伐採が隆盛を極め、戦後に於ては殆んどが荒廃し、僅に町有林だけ林相が認められるだけになった。斯様な森林の伐採に対し造林面は全然考慮されていなかった。昭和十七年に門別森林組合が出来てからは目覚しい活躍が続けられ、苗圃の経営から造林まで一貫して事業が今日実施されつつある。一面国有林に於ては営林署が国の計営方針に依って伐採から造林、治山、製品その他の事業が進められているのである。
 当町も木材にめぐまれ、木材事業の恩恵によって発展した町である。ここに木材事業の変遷を尋ねてみよう。
 開拓は先づ第一に森林を伐り開いて耕地を広めるということであるがこの木材の処理に非常な苦労をしたことは今日我々の想像以上のものであったろう。おびただしい森林資源を空しく失ったことは惜しみてもあまりある現在である。幸い当村としては現在の水田地帯は山林なくめぐまれておったのであるが、奥地は深く、森林は昼尚暗くうっそうと繁茂して居った原始林であった。
 当厚別川流域を狭んでの山は、南は国有林(新冠)北は町有民有林(門別)となっている。さて大正二年に長田俊一が『オサツナイ沢』と『ユサの沢』(前川万吉の沢)から二万石の木材を一年で搬出したのが当村の木材事業の初まりであり第一人者である。当時は木挽きが巨木を倒し引割したものであるが、最近になって『チェンソー』という機械を使用するが、約六〇年間はノコ一挺で仕事をしたものである。搬出は馬搬(金輪馬車)で一台四~七石積んで今の北厚製材工場附近の浜辺に出した。皆船積みで三隻の貨物船で内地へ送ったと。責任者は吉原某であり一年で造材を止めた。
 翌年三年に門別町の民有林の造材事業をしていた○本富本朝次に勤めていた矢島清吉が独自で当村に造材事業を初め、この地に没する迄木材事業の開発に貢献した方である。
 先づ氏は旧厚別の山道の上下の森林を、農地を開拓すべく皆伐を初めたのである。当時御料地であってその看視人の責任に於て造材が行なわれ、立木の調査は見通しのよい所に立ち、ここからここまでと云って指示したものである。主として『カツラ』『セン』『シナ』で軽い材木のみであった。何故かというと搬出、船積みにし易いためであった。当時立木が大きいので引割り角材にし殆んど人間がトビ一挺で雪を利用して川岸まで出し皆流送であった。当時川幅広く水量も多く流送には最適であった。今の鉄橋下方に『留場』を作って材を集め川向に材を土場積み船積したのである。当時三、〇〇〇石積める浜辺であった。最近まで当時の留場の杭が残って居った。取引先は『三井物産』『岩佐木材』で東京の深川。名古屋、大阪方面へ輸送した。(年間二、〇〇〇石~三、〇〇〇石の搬出である。終戦前まで)
 厚別山道の事業は大正七年頃まで行ない、次第に奥地へ入り受乞の沢では道路用地として障害木のみの材を昭和五年迄切り、続いて元神部沢の両側、道路に近い所のみの良資材を昭和八年まで造材し、雪解を利用して(五月~七月)浜まで出したものである。(流送)流送は昭和八年頃迄続けられたが、流送により堤防の欠壊、畑作に対する被害、又水量も少なく により以後中止となった。
 矢島清吉が造材した跡を同様に続けたのが細川嘉重である。昭和九年に美宇沢に入った。今迄の搬出は馬ソリ或は主として金輪馬車であったが、材が細くなり丸太を出すのになかなか困難を来し、ここに苫小牧の中本某所有の『保動車』四台を入れたのである。輪が小さく低いので材の積み方や下し方が便利で大変喜ばれたのである。翌年には十一台を使用し搬出を優位にならしめたのである。ここに農家の人達も保動車を使用するようになった。ところが又ここに活気的なものが出て来た。それはトラックである。現場が遠く搬出が困難を来たした矢先である。福本某で四台使用。これはシングルタイヤで十二石位積めばよい方で昭和十一年に美宇沢へ初めて入れたのである。これも細川嘉重である。今迄材の搬出は馬搬に依存したのがトラックになると、馬車夫との争いは土場に道路上に於て絶えなかった。 年を追ってトラック搬出が盛んとなり、北自、日振、○通等の会社が続々町に入り、秋から春までは大変な賑わいであった。搬出も人間の手で川に流したのが玉引となり、金輪馬車、馬ソリ、保動車、トラックと時代の流れは時々刻々と移り変って行ったのである。
 矢島清吉が厚別川流域の右側国有林を造材したと平行して、左側町有林の造材を初めたのが長田森新(清畠に現存)である。場所は温泉場(田村重雄の沢)で土地は新冠町有林、材木だけ三井物産が約一千町歩の社有林があった。(賀張岸松の沢まで)後土地は○本が買った。二ケ年の事業で約三百町歩の素材二万石余りを搬出。勿論良質材のみで、ナラ材が主とし、カツラ、シナ、センなどを馬搬によって厚賀浜迄出したのである。材の切り出しは八掛にして角材として搬出した。主として支那と取引があったようである。枕木材は英国の植民地(本国)行きである。大正十年であった。造材の跡は木炭をやり、木炭事業の初まりである。後前原某が行なった。
 後年奥地即ち本流のチライコッぺ沢、イタラッキ沢の国有林の拓伐事業が共同造材で行なわれた。川田浅次郎、川田栄次郎、舟川幸作、清兼光太郎で、昭和十年頃まで継続された。
 さて当時船積をしたのであるが、これは昭和十七・八年頃迄続けられたのである。この船積の様子を記してみよう。
 船積の方法であるが、すべて手で本船まで運んだという。原木の両端を一頭の馬でころがし乍ら浜辺まで運び、ガンタで胸まで水につかってカラ繰舟でイカダ作りをする。出来たイカダを本船から岸まで命網(ロープ)を張ってあるロープにつながって本船まで行く。これが繰越舟で(五・六人乗り)ある。本船には『チンカケ舟』(二人)が居って原木を本船へ積み上げる。特にチンカケ舟は危険であった。主として船積みは夏頃であるが、春四~五月頃など水は冷たく、勿論ゴムものはなく素足で寒風、大勢の人夫が波打際で腰、胸まで海水につかり、ガンタや鳶口を使って木材を出した。岸にはたき火をして暖をとり、とっては海に入り、ひどい時はシズクが氷となったものである。全く想像に絶するものがあり、血と汗によって築かれた当町開拓の尊い物語りの忘れてはならない姿である。 大正十三年頃に初めて発動機船を使用したが種々支障があった。それはイカダに無理がかかった。バラカンが落ちで材が流れるのである。然し『シケ』の時など沖積みの人の迎え、又流れた材を集める等大変喜ばれたのであるが、一利一害である。この発動機船も昭和十三年頃からは使用方法を改良して本格的に活躍したものである。現在の踏切り下の沼であるが、当時としては大きく青々として深く、魚類も生そくし、船積みの舟を浮べることが出来て便利であった。
 木材搬出中で正月二日の初荷の風景であるが、夫々事業所の印の真新しい伴夫を着て初荷旗を立てて一杯機嫌で石油缶や酒樽をたたき乍ら午后数十台の馬ソリ或は金輪馬車が連ねて来る行事は実に壮歓で、ミカンを路上で見送る人達に投げるなどそれは街はお祭りさわぎであった。この造材事業により街は活気を呈し、飲食店、蹄鉄屋、馬具屋、鍛治屋は勿論、各商店も繁昌したのである。農家の大達も秋から愛馬を持って木材搬出に活躍したものである。
 又搬出に当って斯様なエピソードもある。山の土場(木材集積所)へ行くのに真冬である。石油缶を半分に切り木炭で暖をとり夜半に我家を出発すると六時頃には正和の土場へ着く。ところが馬がどうしたことか本人が目をさめてみると我家の馬小屋であったということである。
 又木挽き達は提灯、タイマツをともして黒暗に材を切り出したそうである。『採面明け』といって目ぼしい材木に『くじ』を付けて切り出した。古老達は云う『当町の人達は総てによく働いたものである』と。今振り返ってみると斯様なことはとても出来るものではないであろう。明治は遠くになりにけると、明治の人達の根情が今日如実に物語り、我々は先代の御苦労に感謝しようではないか。
 最後に特別緊急材として軍用材が搬出された。それは昭和十八年から十九年三月迄である。『ヤチダモ』は船舶二五〇型の車輌材とし、『マガバ』『シナ』を航空機とし、十八年には『ヤチダモ』二万二千石、美宇メロの沢より一万二千石を白老の久保、川田、武笠某が搬出。本流へは矢島、村上事業所が一万石を搬出した。これは三月『一ケ月間』で搬出せよという至上命令で勿論昼夜兼行で造材にかかり、お祭り騒ぎであった。一括して大量に搬出したのは今初めてのことであった。
附記
 搬出石数について 『馬ソリ』一台四石~七石
 『金輪』一台六石三段積、土台四石、二~三台は二~三石
 『保動車』一台八石~十石
当時の積金について 一日の出面が三〇銭~四〇銭の時。普通の人夫六五銭~七〇銭。馬車一台三円~三円五〇銭。木挽き一円二〇銭、腕のいい人二円
長期間斯様な賃金が続いた。
◎厚賀営林署の概要
(年代)(御料林)(国有林・内務省所管)
 明治十六 十二 宮内省主馬寮所管の御料牧場となる。
 明治四一 六 札幌営林区署浦河分署の管轄となる。
 大正十三 十 厚賀分担区駐在所新設
 昭和三 一 主馬寮所管から御料局に移管される。
 昭和三 六 浦河営林署となり門別担当区員駐在所新設す。
 昭和五 五 門別苗畑新設さる。
 昭和六 五 カラマツ人工植栽が初めて行なわれる。
 昭和十三 九 美宇分担区駐在所新設
 昭和十三 十 森林電話が厚賀、新和間に開通される。
 昭和十七年 一 帝室林野局札幌支局厚賀出張所となり御料牧場より分離す。
 昭和十七 五 東川に帝室林野局元神部苗畑が新設される。
 昭和十七 十 製品事業が開始される。
 昭和二一 五 満洲開拓団引揚者が太陽に入植する。
 昭和二二 四 帝室林野局は農林署に移管し札幌営林局厚賀営林署となる。
 昭和二二 十 林政統一により内務省所管の国有林が農林省に移管されたので浦河営林署門別担当区で管理していた国有林は厚賀営林署に管理換された。
 昭和二三 二 国有林も開拓用地として開放した。(太陽七六五haを初めとし二四年から三七年迄三七一五haを開拓用地として開放した)
 昭和二五 十二 開拓部落の小中学校に学校分林を設定した。
 昭和二七 美宇担当区事務所が新和担当区より分割され新設される。
 昭和二八 三 厚賀貯木場が新設される。
 昭和二九 十二 国有林野整備法により門別町に三〇八haを売払した。
 昭和三三 七 東川担当区事務所が厚賀担当区より分割新設された。
 昭和三四 十一 広富担当区事務所が門別担当区より分割新設された。
 昭和四九 十二 現在に至る。

◎主なる事業の内容

一、造林事造
 人口林は林地面積の約一八%であり、昭和六年にカラマツを七〇ha植栽したのが始まりで、昭和十九年迄七一〇ha、昭和二〇~二一年は中断し、昭和二二年再開、昭和四八年九月迄の造林量は三八六五haに達した。
 樹種別ではカラマツ一八八〇ha、トドマツ一五二八ha、その他杉、アカエゾマツ、ヤチダモ等四五七haである。昭和三五年より請負事業を導入し、昭和三六年からは機械化による省力化のもとに作業方法を改善し最少限の投資にて最大の効果を得るように実行している。

二、治山事業
 当管内の地質は大部分が新第三紀層で、その大半が川端層であり、その上に樽前系の新しい火山灰質砂壌土があり、非常に崩壊しやすい地質にある。昭和三〇年から現在迄に渓間工七一ケ所、護岸一ケ所、山腹工五ケ所等を実施し、流域の保全につとめてきたが、今後も第四次治山五ケ年計画(昭和四七年~五一年)に基づき実施していく予定である。

三、製品事業
 製品事業は昭和十七年度から始まり、冬山を主体として年間四千~五千m3の素材を生産していたが、昭和三〇年頃から機械化に伴って作業形態も冬山から漸次夏山となった。三二年度には林力増強計画に基き太陽、里平、三和、ウエテシカンの四事業地を循環団地として製品事業林が設定され、三三年度には太陽事業地から本格的な伐採を開始し、三七年度までにこの事業地での伐採を終えた。その後三八年から四六年迄の夏山は直営請負事業ともに里平事業地で実行したが、四七年から請負は三和直営は豊郷事業地へ夫々移行した。四八年以降の直営事業について造林事業との組合せにより、毎年十二月~三月を生産事業期間とする冬山事業形態を基本として実行することとし、豊郷から共栄団地へ事業地の変更を行なった。

四、林道事業
 昭和四七年度末の開設林道は八三km、林道密度はha当り四mとなっている。国有林の経営分離化の推進の基盤として昭和五年度を目標にヘクタール当り七mにすべく鋭意実行推進中である。
昭和四八年度 事業概要
一、伐採量 立木販売 五二、六〇〇m3
 製品資材 二二、一〇〇m3
 右量は六六m2(二十坪)の住宅二、六六〇戸分に相当
二、造林面積 新植 一六〇ha 天然更新の-一一三ha
三、苗木生産 二六万本
四、素材販売 一五、〇〇〇m3→二億一、五〇〇万円
五、立木販売 五二、六〇〇m3→一億八、〇〇〇万円
六、林道 自動車道延長 八三km 新設 八・四km
七、治山 山 堰堤二ケ所 一、九九〇万円
一般会計
 歳入 二億四、八〇〇万円
 歳出 二億五、六八七万円
職員数
 定員 内六九名 外四〇名
 国有林面積 門別町 九、七四八ha
 新冠町 一二、一六六ha 計 二一、九一四ha

第三節 工業


◎峯村商会(峯村教平)

 峯村商会というのは新冠町字大節婦の入口に、当時としては大工場を建設し、セメンダルの箱材とオワン工場を経営してその事務所は当町(今の藤井自工跡)にあって当時の町の発展を促進した会社である。
 峯村商会は東京に在り、工場を前記に建設した。当時皆材の権利は宮内大臣が持っており(約三、〇〇〇町歩の御料地)峯村に二万五千円で権利を許可したが、後年材立木五万五千石の特売権に切変えたのである。
 責任者は丹羽公雄で、主として造材と木炭が本業であった。創立は大正五年頃であったという。原木の良質材と木炭を船積にし、雑材はセメンダルの樽材を製作して居った。大正十二年に久保田善作が札幌で『オワン工場』をやっており、当地の人の中介により大節婦(オワン工場)を建設したのである。この時同人と一緒に来た人で吉田吉松(当在住)が兄弟と共に入った。当時二三歳である。オワンエ場の機械は丸鋸でモーターの代りにボイラーをたいて機械を運転していたのである。その機関士は柳屋某である。機械は石川県で使用して居ったのを札幌で改造しそれを運用したものである。職員は石川県よりはるばるやって来た。
 製品は荒仕上げし、乾燥して船積み富山へ陸揚げ石川県へ運搬したという。当時の従業員は木工場で三〇余名、オワン工場で約二〇名であった。事務所は勿論、住宅も十棟(一棟五戸)あり、後年現在の守先木工場の事務所、住宅は改造されたが、当時使用したものであったという。
 事務所は記した如く当町にあって、当時としては近代的で立派であり幹部の住宅、倉庫附近にあって一大町内を形成して居った。木工場従業員に送る生活物資は毎日荷馬車で尽尚暗き山道(旧国道)を通り運搬したものであった。時に当町にあっての飲料水は山岸より川筋本家の湧水を鉄管を埋設して利用し、一部にも恩恵に欲したものである。
 然し昭和初期に於ける経済界の不況により、商会も遂に倒産し閉社したのである。開拓途上に於ける当町にとっては誠に画期的な存在であり発展に対する貢献大なるものがあった。
 峯村不振の為、神戸の○金柴田享一が峯村の跡を引受けて、昭和四年秋受乞の沢一五七林班(御料林)の作業の下請けをしたのが細川嘉重である。事務所は昭和十一年頃迄現存し、住宅九戸は夫々払下げして拝借したのである。

◎守先木材株式会社

 沿革として大節婦に峯村工場があったが昭和初期に閉場して、その工場を現在地に移転し創業したのが守先不二夫である。爾来四十年の歴史を有し本町として最初の製材工場である。
一、社名 守先木材株式会社
二、設立年月日 昭和九年十月
三、工場長 守先不二夫
四、従業員数 二〇名
五、最近年次に於ける種類別数量 素材 七、二〇〇m3 製材 四、六〇〇m3 チップ 三、〇〇〇m3
六、設備概要 四八吋自動送材車付帯鋸盤 一台、四二吋ローラー帯鋸盤 一台、テーブル式帯鋸盤 一台 横切機 三台、リップソー 一台、チップ製造設備 一、皮むき機 一、その他

◎川田木材工業株式会社

 沿革、戦前川田浅次郎が国有林の造材事業に当町奥地で活躍して居たが、戦後個人で現在に工場設置創業を開始したのが昭和二三年である。三一年十月一日に組織して株式会社に変更して、川田木材工業株式会社となった。社長には川田浅次郎が就任し、専務に川田忠行となる。三五年に時代の推移によりチップ工場を設立し、四五年には代表取締役社長が川田忠行に変更し現在に至っている。現在は加工製材を始めて需要度が高まっているのである。
一、社名 川田木材工業株式会社
二、設立年月日 昭和二三年三月二十日
三、社長 川田忠行
四、従業員 職員 三名、従業員 二五名
五、最近年次に於ける種類別数量 素材 三、五〇〇m3 一般製材 二、四〇〇m3 加工製材 一、二〇〇m3 チップ 四、五〇〇m3
六、設備概要の製材工場
(一)製材工場
四四吋自動送材車付帯鋸機 一台、四二吋卓子帯鋸機 一台、三四吋卓子帯鋸機 一台、二六吋吊下式横切機 二台、原木皮剥機(遠隔操作式)一台
(二)加工工場
片面鉋艦 二台、昇降機 一台、リップソー 二台、手押鉋艦 一台、引抜機(木管製造用)一台、横切機 二台、研磨機 一台、製材乾燥設備(二〇m3収容)一式
(三)チップ工場
チッパー機(三六吋)一式、研磨機 一台
(四)運搬設備
二・三屯フォークリフト 一台、グレーン車(二・八屯)一台、捲機 一台、小型ブルトーザー 一台

◎北厚林業株式会社

沿革 昭和33年5月 新冠町字共栄に製材工場を設立し、製材業を経営したのが田村稔であった。
36年10月 現在地に至る製紙の支援を得てチップ工場を設立す。
38年5月 北厚林業株式会社を設立し、社長に田村稔。従業員四〇名、資本金一〇〇万円で開始す。
39年11月 工場焼失す。
40年2月 チップ工場及製材工場を元の位置に棟続きに再建す。
41年11月 スキーブロック工場(現加工々場)を建設(製材工場隣接) 従業員七〇名
43年3月 新製材工場(現製材工場)を建設す。
43年7月 社長田村稔死去により田村敏子代表取締役社長となる。
43年11月 増資により資本金四〇〇万円となる。
44年7月 チップ工場合理化により、旧製材工場を閉鎖 チップ工場増築す。
44年9月 遠軽町井上水産業社の経営参加により代表取締役交替し、井上庄七社長となる。増資により資本金一、六〇〇万円。従業員一〇〇名
45年4月 定款変更、代表取締役二名とす。代表取締役社長 井上庄七 代表取締役専務 牛丸昭吉
48年10月 チップエ場解体、新チップ工場新設し現在に至る。
一、社名 北厚林業株式会社
二、設立年月日 昭和三三年五月
三、社長 井上庄七
四、従業員数 取締役六名、監査役一名、従業員一二〇名
五、最近年次に於ける種類別数量 立木採量 四九、八四〇m3、製材 三九、〇〇〇m3、原木挽立 八、五〇〇m3、素材売上 八、三〇〇m3、チップ 二八、三〇〇m3、集成加工材 三、七〇〇m3、集成材(ピアノ用、ギター用、階段手摺材、踏板、食卓用、スキー用、家具用、建具用)家具材全般
六、設備概要 (一)ボイラー五屯(最高気圧 十kgcm2) 木材乾燥室 一三m3入二室、一一m3入六室
(二)製材工場 本機 五〇吋入六吋一式、定盤 四二吋入五吋 二台、横切ツー 三台、ヘプケ削皮機 一台、チッパーマシン三〇吋 一台
(三)チップ工場 チュンライブデッキ 一台、スラッシャーW 一台、大日トラムバーカー九入二〇〇 一台、小割定盤四八吋 一台、チッパーマシン五二吋 一台、スクーリン 一台、その他設備 一六台
(四)加工々場 二四吋プレーナ 十台、手押ムラ取プレーナ 四台、リップソー 六台、クロスカットソー 四台、コンポーザ 二台、五四プレーナ 一台、ローラ定盤四八吋 一台、チッパーマシン四八吋一式 一台、コールドプレス三入六 一台、ホットプレス四入八入十二 一台、その他設備 十五台
以上

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