郷土史 空撮写真で見る西舎の変遷

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工事中公開

空から見る西舎の移り変わり ~空撮写真で見る郷土の変遷~


作成:どんぐりかいぎ実行委員会


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どんぐりかいぎ実行委員会の○○といいます。 いつもは、国道で土木の工事をしています。
今日は、私が土木の仕事で使っている、
写真やソフトで みなさんの町「浦河」を 空から見て、
昔の浦河がどんなだったか、
そして、時間とともにどのように発展して 現在の形になったか 見てゆきましょう。◆

(出典:国土地理院 国土変遷アーカイブ)

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昭和19年の空から見た浦河の写真です。 今から70年前のことです。 この頃は、アメリカと日本が戦争をしていました。★
黄色い線は鉄道の日高線です。 浦河駅は、ここです。 鉄道の通っているところは、今と変わりません。 浦河まで鉄道が出来たのは昭和10年です。 ちなみに、現在の終点様似までは昭和12年です。
このころは、浦河駅の目の前が海岸でした。

道路をみてみます。このころは、自動車はほとんど走ってなかったでしょうし舗装もされていません。 今ある、国道235号線とおおよそ同じ位置に、★
この紫の線の道路がありました。 苫小牧に行く道路★
様似へ行く道路★
ですね。 浦河駅の目の前が海岸だったと言うことは、★
今ある国道は無くて、浦河駅の山側に道路があって、★
踏切で鉄道を横断していたことになります。 その踏切は、今もありますね。★
この点線の部分は、今は埋め立てられて陸地になり町役場や警察署がありますけど、このころは海です。町役場はどこにあったのでしょうか? このころの役場は、汐見ケ丘にありました。★
 (役場を標示すること、場所がいまいち?) 港の付近と浦河小学校がある常盤町は建物がたくさんあって発展してます。浦河は、古くから日高の中心で役所などが集中していました。 さて、 みなさんの堺町は、どうだったでしょうか? このあたりですね これでは小さくてよくわからないでしょうから★
堺町のあたりを拡大してみます。

(※画像はすぐ切り替えない)◆

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★黄色い線は鉄道です。
紫色は、国道235号ですが、まだこの頃は国道に認められていませんでした。
交番のある交差点から向別への道路は、この頃からまっすぐ延びていました。
この線路沿いの道も確認出来ます。
★ここが向別川 ですね
★中学校の前の踏切の位置は今と変わりません。
あとの平地部分は、四角く見えるので畑です。
なので、
今、ツルハがあるところの十字路交差点はまだ無いです。
みんな畑です。
ここに注目してください。 小判形のものが見えます。中は畑のようで、並木が横切っているようです。
さて、これは何でしょうか?
(1)学校のグラウンド
(2)陸上競技場のトラック
(3)競馬場 正解は3番の競馬場でした。
★ 建物があるのは、★堺町西の海岸付近と ★向別川の河口付近だけです。
このあたりに、並んでいる細長い建物は、兵隊さんがいた兵舎でした。
戦争が終わった後は、学校や住宅に改造されました。

(※画像はすぐ切り替えない)◆

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写真は、もとの大きさに戻ります。 約10年たって、昭和28年になりました。
★この写真だと、10年前とさほど変わっているように感じません。港の形もほぼ同じです。
だだ、日赤病院や浦河高校のある東町がずいぶん発展したのがわかります。
この頃の人口は、。。。 では、堺町のあたりを拡大してみます。

(※画像はすぐ切り替えない)◆

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★国道235号は、ここです。 競馬場は、未だ有ります。 皆さん、わかりますね!
★競馬場の北側に同じような形の建物が等間隔で並んでいます。
これは、公営住宅のようです。 兵舎のあったあたりは、
★ 建物の形が変わっているので、 一度壊して、公営住宅に建て替えたようです。
他は、違いがあまりないようです。

(※画像はすぐ切り替えない)◆

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昭和53年になりました。 写真がカラーになって見やすいです。
★ 町役場のあるあたりの埋立てが始まってます。
★ 東町が山の奥の方に向かって、さらに発展したのがよくわかります。
★向別川 に注目してください!海にまっすぐ流れないでクネクネと曲がって流れています。
これを蛇行といいます。
この虫偏の漢字は訓読みで「へび」のことです。わかりやすい言葉ですね。
堺町のあたりは一気に発展しました。畑が無くなって建物がびっしりです。
★ 堺町のあたりを拡大してみます。

(※画像はすぐ切り替えない)◆

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★やっと、今の小学校の校舎が完成したようです。
堺町小学校がありました。
浦河第一中学校は、まだのようです。

(※画像はすぐ切り替えない)◆


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さらに30数年経ちました。 現在の浦河です。
★埋め立て地が出来てます。町役場や警察署もここに移りました。
★向別川は、こんなに曲がりくねって蛇行してましたけど
★ 土木工事で、まっすぐになったのがよくわかります。
黄色い鉄道の位置だけは、ずーっと変わってませんね!

堺町のあたりを拡大してみます。
★ (※画像はすぐ切り替えない)◆

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★ 十字路交差点がはっきりわかり、商業施設がたくさん出来ました。
浦河第一中学もあります。 ★

◆(※画像はすぐ切り替えない)

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ダミー

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《参考》使用した資料など
▼空撮写真
 出典:国土地理院 国土変遷アーカイブ
 出典:Google Map
▼使用したソフト
 Autodesk InfraWorks:土木インフラの予備設計向けの 3D モデリングツール
 QGIS:地理情報の閲覧、編集、分析機能を有する無料のGISソフト
▼参考にしたWEBページ
 浦河町史(昭和46年4月10日発行)
▼参考にしたWEBページ

浦河町公式ホームページ
浦河町(北海道)- Wikipedia – 浦河郡
日高本線 – Wikipedia
国道235号 - Wikipedia
▼この資料他の公開先
URADOどんぐりかいぎ




作成に使用したリンク・データ


「浦河」の地名は、アイヌ語の「ウララベツ」(霧深き川の意味)から転じたもので、江戸時代に松前氏が蝦夷地統治のはじめ、元浦川の下流に会所を置いたのに由来している。
また、江戸時代に松前藩が幕府に献上した『元禄御国絵図』にも既に「浦川」として記されている。
歴史 江戸時代は、元浦川河口付近(現在の荻伏市街地)が浦川と呼ばれ、松前藩によって浦川場所(会所)が設けられており、主に漁業による交易が行われていた。
幕府直轄時代になって浦川場所がトマリ(現在の浦河市街)に移されたため、そのまま地名として呼ばれたとされている。その後、松前藩に復したが、安政2年(1855)に再び幕府直轄となった。
明治時代に入ると、開拓使の移民政策により、海陸資源の豊かな浦河に新天地を求めて内地人の移住が盛んとなり、開拓は苦難の連続であったが、明治20年代には軌道に乗りはじめた。
一方、浦河の港は昆布をはじめとした海産物などの物資の集積地として賑わいをみせ、明治5年に開拓使によって浦河支庁が置かれてからは、郵便局、裁判所、警察署などの諸官庁や銀行などが相次いで設置され、日高地方の行政・経済・文化の中心地として発展してきた。
そして、明治35年、2級町村制施行により、浦河町、西舎村、杵臼村、荻伏村の浦河町外3か村組合となり、浦河に組合役場を設けたが、明治43年に荻伏村が分離独立して浦河町外2か村組合となり、大正4年には、1級町村制施行により、浦河町、西舎村、杵臼村の3町村を合併して浦河町となった。
昭和に入っても、浦河港の完成や鉄道の開通に伴い、日高における浦河の役割は重要性を増し、水道の設置や浦河実践女学校(浦河高校の前身)の設立、日赤浦河療院(現在の浦河赤十字病院)の開院など生活環境も向上した。

戦後の復興も農林水産業を中心に順調に進み、昭和31年には、荻伏村との合併により現在の浦河町となり、今日に至る。
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